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学生時代はスポーツが苦手な文化系人間で、熱中したものはゲーム。
家庭用ゲーム機やパソコンで遊べるコンピュータゲームはもちろんのこと、
ボードゲームや、会話で進めていくテーブルトークRPGといった
マイナーなゲームにものめり込んでいった。
オタクと言えばオタクだったと思う。
いや、そんな生やさしいものではない。
友人たちとボードゲームのルールを自作して賞を取ったり、
大学内になかった「ゲーム研究会」を発足させたりしていたので
もはや筋金入りのオタクだったこと認めざるを得ない。
が、これもまた自分の中の「変身」に対するあこがれだったのかもしれない。
ゲームの世界では自分ではない「何者か」になれていたから。
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新社会人で初めて就職したのは某ビール会社。
「勤務地か職種のどちらかは希望が叶う」と言われていたのに
「関東地方、総務部」を希望した私は「大阪支社、営業」へと配属が決まった。
サラリーマンとしての生活がスタートしたわけだが
典型的な仕事ができないできないダメ社員だった。
営業職というものの本質が全くつかめず、
いろいろと教えてくれている先輩に迷惑をかけ続け、
上司からは本気で辞めて欲しいと思われていた。
4年の営業を経て、情報系の部署に異動して
SEの仕事に近いことをやっていたものの、
すぐにSEとして活躍できるはずもなく、下積みのような毎日となる。
ただ、今から思えばこのサラリーマン生活の中で
営業では「コミュニケーションは才能ではなく、学べるもの」ということと、
そしてSE時代では「ロジックを組み立てる」という
とても大切なことの基礎を育んでいたかもしれない。
その後は5年ほど実家に戻り、家業であるお酒の卸業に専念することとなる。
一応、後継ぎ息子だったので役員になっていたのだが、
ここでも「仕事とは苦痛な義務」という認識しかできず、
「使えない後継ぎ」という陰口を聞こえないフリをして過ごしていた。
考えてみれば、お酒にかかわる仕事を選んだ理由が
自分からの希望ではなく、親の意向に従ったものだったので
社会人になって11年近くは、自分の人生を生きていなかったのだろう。
もちろん、自分に強い信念さえあれば自分の道を選び進めていただろうから
その責任は自分以外の誰にあるものでもない。
単に、私がそこまで自分の人生を深く考えていなかった。それだけだ。
ただ、そんな経験があるからこそ、
「自分を生きるとは?」
というテーマに対して、真剣に向き合う姿勢を大切にし始めたのだ。
だから私自身も「自分を生きる」という「変身」を心から切望したし、
知り合う人に対しても「あなたを生きて欲しい」と心から願っているのだと思う。
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「早くこの仕事を辞めたい。でも私は後継ぎだし・・・」
という宙ぶらりんな毎日の中、ある日、一つの光明を見出した。
それは「株式トレード」という世界だった。
株を安く買い、それを高く売れば儲けられる。
それは何となく知ってはいたものの、
インターネットを使ってクリックひとつで行えるとは思ってもいなかった。
おそらくネット取引がメジャーになりつつあるそんな時期に
私も株式トレードの世界に飛び込んでいったわけだ。
「ここには自由がある」
自分の意志で、いつ、何を、どれくらい売買するのかを決められる。
そこには取引所と証券会社のルールがあるだけで、
長年のプロも、はじめての素人も一切関係がない。
資金や情報といった差はあるものの、
上司も、個人のしがらみも、遠慮もいらないその世界に
当時の私は無限の可能性と、束縛から解放されるフィールドを見た。
そこから家業もやりつつ、株式についての勉強を始めた。
ここでSEをやっていたことからのロジック思考が役に立った。
当時の私にとって、株式はお金儲けの手段以上に
自分の意志・考えを発現できる空間だったのだと思う。
何者でもない私が、何者かになる。
そんな「変身」への扉を開く鍵のように思えたのだ。
株取引を始めて1年も経たないうちに、
株式取引で稼いだ金額は1,000万円を超えていた。
それは私が後を継ぐはずだった会社が
目指している経常利益を超える金額だった。
その事実は、私を専業トレーダーの道に進ませるには
充分すぎる動機になったのだ。
後継ぎとして後ろ髪を引かれる思いはあったものの、
会社を継承しないことを父に告げ、そこから1年強をかけて会社を去った。
社会人になってから11年。
はじめて完全なる自分の意志で歩き始めた道だった。
後になって分かるのだが、
ここが、あこがれていた「変身」を実感を持って味わってゆく始まりだった。
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専業トレーダーとして、平日の9時から15時までは
嬉々として取引画面とにらめっこをする毎日がスタートした。
それまでとは比較にならないほどの圧倒的自由な時間と精神。
ただそこには思ってみていなかった新しい感覚がついてまわった。
それは「退屈」という贅沢な問題だった。
人との交流が極端に減り、気を使わなくてもいい反面、
そうなったらなったで友人との語らいを望むようになっていた。
しかし今まで普通に仕事をしていた私に
15時には仕事が終わる友人がいるわけもなく、
その日の取引が終わると暇を持て余していた。
そのような中で、また新たなフィールドが扉を開ける。
それは実世界からの誘いではなく、
これもまたトレーダーという仕事と同じように
インターネットを通じてのものだった。
ひとつは、株の意見を交換するネット掲示板。
もうひとつは、当時流行していたSNS『mixi』で、
実際に会ったことのない人たちとの交流が始まった。
今では珍しくもなんともない「オフ会」だが、
どんな人が来るか分からない恐怖の中、
それよりも好奇心が勝って、自ら主催などもした。
新しいことはやってみるもので、
そこから今までとはまるで違う人々との交流が始まった。
その交流は、私にまた新しい「変身」をもたらすことになる。
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トレード、そしてそれが終わればネットでの友人たちと
やり取りを続けている日々、
「株の講師をやってみない?」
と誘ってくれた人がいた。
その人も『mixi』で知り合った人だったが
不動産等で財を築いている、いわゆる成功者だった。
「まぁ、講師という経験もしてみてもいいかもな」
といった軽い気持ちからセミナー講師役を受けたのだが
それが2007年から現在まで講師を続けているのだから
人生何が起こるかわからない。
人生初のセミナーはおかげさまで無事開催され、
またトレーダーとしての日常に戻る…かと思いきや、
「イグちゃん、よかったら一緒に仕事しようよ」
と、講師を提案してくれた人に誘われた。
なんでも、これから株の取引方法を教えるための情報サイトを
さらに大きくしてゆく計画があるとのことだった。
毎日の株式取引だけでは埋めることのできない「何か」がある。
そんな直感だけを頼りに、
「仲間と仕事を創ってゆく」という起業の道へと入っていった。
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新しい会社。
とはいえ、メンバーは数人。
やるべき仕事量と、人の数の圧倒的アンバランス。
しかもメンバーは全員、別の仕事もやっているため
事務所に常駐できる人がほとんどいない。
そんな環境下で私は、
事務、顧客対応、マネージメント、たまにセミナー講師と
さまざまなタスクをこなしていった。
そう言うとカッコよく聞こえるかもしれないが、
他のメンバーの専門性を活かすために
「その他の業務」を全部引き受けていたというのが実情だ。
それでも人手が足りない中で、私は新しいスキルを身につけることになる。
それがコピーライティングだった。
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私のコピーライティングの師匠は、
同じく新しい会社の起ち上げに加わったメンバーの一人。
年齢は8歳年下だが、とてつもないコピーライティングの実力を持った人物で、
彼から「文法的に正しい文章」と「心に刺さる、売れる文章」の違いを
徹底的に教えてもらえた。
起ち上げ初期の会社。
セールスが失敗に終われば、そのまま会社がなくなることに直結している状況下で、
彼を主導としたコピーライティングで会社は急成長を遂げてゆく。
もちろん、彼以外にもマーケティングの天才や数値管理の天才、
株式のコンテンツを作る異能チームが有機的に機能し、
それをまとめあげているリーダーがいたからこその成果ではある。
が、それを踏まえても最高に恵まれた(そしてヒリヒリする)環境で
コピーライティングの力も学べたことは、私の人生を決定づける要因の
大きな一つになったことは間違いない。
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起業から3年。
お世話になった会社も安定期を迎え、私はそこから去ることに。
素晴らしい仲間とギリギリを何度も突破する修行を経て
仕事が「苦痛な義務」から「最高の喜び」へと価値観が塗り替わった期間だった。
この3年で学んだビジネス、コミュニケーション、コピーライティング、
さらにセミナー講師として何かを伝える力で、
また1から自分の力を試す旅が始まった。
あこがれていた「変身」を、身をもって体験できたことで
また何かをやっていこうという模索に入った。
そこから新しく挑戦をしたのは、出版。
書きためたブログをまとめて、コネも何もないまま出版社に送ったところ、
何の運命のいたずらか、通常は別の部署に回されるはずの私の原稿が入った封筒が
誤って直接編集長の机に置かれる。
そこから出版の話がトントン拍子に進み、初の出版を果たす。
さらに、めぐりめぐって別の編集者さんとも出会い、
2冊目の著書も出版し、さらにはその流れの中で
数多くの著者さまたちとも出会い、執筆のお手伝いなども始まる。
また、セミナー講師としては、自分で集客し、事務処理もやり、
セミナーをやる、という形の中で、
「イグさん、今回のテーマとは違った、こういうセミナーもできませんか?」
というリクエストをいただくことも増えた。
そんな要望にひとつひとつ答えていくうちに、
50近いジャンルの話をするようになってしまった。
それも全部「必要な人に、変身を体験してもらいたい」という
願いから生まれていったものなのだろう、と振り返っている。
さらには、マーケティングに長けた友人との新しい出会いから
1年を通して学ぶビジネス塾「クリエイト・ビジネス・アカデミー」を開講することなど、
それまでの自分とは違う講師のあり方を経験させていただくこともできた。
さらに別の動きとしては、出会った人の話を聴くうちに
「あの人と縁が生まれれば、また別のシナジーがあるかも?」
と、今までに出会った人をおつなぎする機会も増えた。
それがいつの間にか大きな渦となり、新しいビジネスになることもあれば、
まったく別の何かが生まれることも。
人を紹介し、紹介した人がまた私に新しい人を紹介してくれる。
そんな「類は友を呼ぶ」といった好循環が、日々起きてくれている。
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「変身」にあこがれていた子供時代。
あの頃、変身とは自分の力だけでするものだと思っていた。
ポーズを取り、変身アイテムの力を借りて、
まるで違う「何者か」に変わる。
でも、現実世界の変身は、思っていたものとは違った。
思っていたものをはるかに超える、素晴らしいものだった。
現実の変身は、自分だけでなく、誰かの関わりによって成される。
人と出会い、自分とは違う価値観・人生観、
能力・環境・過去に触れることによって、
「ああそうか、こういう生き方もアリなんだ」
と、今まで見えていなかった現実を突き付けられることによって実現する。
変身は、一人ではできない。
でも、だからこそ、人と出会うことで、触れ合うことで
「変身」をすることができる。
そして、「変身は一人ではできない」という事実は、
「誰でも、誰かの変身のきっかけになる」ということにもなる。
人は、人と会うことで、自分自身のあり方を見つめなおすことができる。
そして、あり方が変わるからこそ、現実世界も変わる。
現実は、「ある」ように「なる」。
それこそが、ずっとずっとあこがれていた「変身」の正体。
だから、私はこれからも「変身」をする。
そして誰かの「変身」のきっかけになりたいと願い続けている。