ほら、スマホでもパソコンでもさ、
アプリケーションのアップデートってあるやん?
「軽微な不具合を修正」とか
「新機能の追加」とか。
まぁ、僕らがふだん使っている時は、
よほど大きなアップデートでない限り、
そんなには意識しないけれど。
でも。
おそらく僕たち一人ひとりも、
毎日、こんな「軽微なアップデート」を
繰り返しているんだと思う。
「誰かに対する言葉遣いをひとつアップデート」
「軽微な勘違いを修正」
「記憶のバグを除去」
みたいに。
その時の環境、人間関係、時代、
大きな流れに沿って、
以前は「正しかった」「普通」だった回路も
「軽微な修正」を重ねてゆく。
たまに、
進学や就職、転職。
結婚、離婚、家族の誕生、別離。
あるいは新しい技術の習得などを経て、
大規模なバージョン変更がなされる。
つまり「わたしVer 2.0」の数字が塗り替わる。
新しい人の出会いによって。
新しい好奇心によって。
新しい期待によって。
そして。
きっと、そんなアップデートを自ら完全にやめた時、
それはアプリケーションでいうところの
「サービス終了のお知らせ」
になるのだろう。
アプリも、サービス終了になったからと言って、
世の中の人、すべてから削除されるわけではない。
つまり「生きて」は、いる。
でも、大規模な新機能搭載はもちろん、
軽微なバグ修正ですら行われなくなる。
それは、そのアプリのひとつの「終了」を意味する。
人間も、きっと、同じ。
自分の考えに固執し、
時代や環境、関わる人たちを全く無視して、
「昔はこうだった」
「これが絶対に正しい」
「もう、自分の考えを変える気はない」
となったら、その人は自ら「サービス終了」として、
「命」を絶ったのと同義になるんじゃないのかな?
なので。
どんな軽微な修正であっても、
「まだ、どこかに私は改善する余地があるかも」
と、日々を生きていく方がいいようにも思う。
そりゃ、たまには、
改善したつもりが、大幅なエラーを引き起こすこともある。
無理して、動けなくなることだってあるかもしれない。
新機能が、まったく受け入れらないことだって。
でも、
「アップデートをしていく」
という意思は、自分を「サービス終了」に追い込まない
たったひとつの方法なんじゃないかな、と思う。
間違ってもいいから。
ほんの、ちょっとでもいいから。
日々の中で少しずつ「修正」をしていきたいよね。
そして、いつかは訪れる「サービス終H了」の日まで、
多くの人に「よかった」と言ってもらえるソフトな人間であれればと
思ったりしますわ。
ではでは。
