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印籠をふりかざすな。

誰かときちんとコミュニケーションを取りたい、
といった時、禁じ手のひとつは、
 
「印籠をふりかざすこと」
 
だと思う。
 
 
「印籠」は、
 
「それを出されたら、相手の言うことを
 受け入れざるを得ないなにか」
 
で。
 
 
 
たとえばそれは、
 
 
私の方が上司だ、とか
 
私はあなたの親なんだから、とか
 
私の方が社会的に実績出しているから、とか
 
私、あのスゴイ人とお友達なんで、とか。
 
 
その他、年齢、性別、学歴、資格、
出身、経歴、経済力、美貌、などなどなどなど。
 
 
 
動かしがたい事実をふりかざして、
 
「私はこうだから」
 
と話すのは、少なくとも
相手と深い交流を生むことはない。
 
 
「印籠」という武装をすべて解除して、
相手を理解しようと互いにするからこそ
人間対人間のコミュニケーションとなるだろう?
 
 
 
「その通りだ」
 
「印籠をふりかざされるのなんて
 まっぴらだ」
 
 
誰だってそうだ。
 
でも、気をつけなければ。
 
 
 
「印籠」は、なにも強い威光だけを
放つのではない。
 
 
もう年だから、とか
 
身体が悪くて動かなくて、とか
 
こういう心の病気だから、とか
 
親がこうだったから、とか
 
過去にこんなことがあったから、とか
 
 
それらも相手を黙らせ自分を守る「印籠」。
 
 
 
 
今、うまく行っている人も、
実はそんな呪縛を持っている人も少なくない。
 
というか、ほぼ全員が
なんらかのハンディキャップを背負っている。
 
 
ただ、それらを「印籠」として
相手にふりかざすことはせず、
胸の奥底に、そっとしまってあるだけだ。
 
 
 
誰かから理解をされたいのであれば、
威光となる印籠も、ハンディキャップという印籠も、
全部、ぜんぶ放り投げて。
 
 
で、相手を理解しようと努める。
 
 
それしか、人間として真に理解される方法は
ないんじゃないかな?と思う。
 
 
(人間として、じゃないのであれば
 他にいくらでも方法があるのだろうけれどね)
 
 
 
さてさて。
 
 
プラスであれマイナスであれ、
「印籠」をふりかざすのは、
 
 
「私を認めろ」
 
「でもここからは、入ってくるな」
 
 
という姿勢の表明。
 
 
 
 
さ、たくさん集めてきた「印籠」。
 
 
どう使おう?
 
どう捨てよう?
 
 
 
それこそが、その人そのものの
あり方なのかもしれないね。
 
 
 
ではでは。
 
 

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