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人としての「厚み」「深み」「幅」「奥行」。

誰かを評する時に、
 
「あの人は人として厚みがあるよね」
「いやぁ、深いわ、あの人」
「幅があるよね~」
「あの人の見識の奥行きがすごい」
 
なんて言うことがある。
 
他にも、器とか、視座とか、しなやかさとかあるけれど、
今回は置いておいて。
 
 
これって、それぞれどうやったら養われるのか?
そして、何が「それ」を阻害しているのか?
 
そんなことを考えてみると、
それぞれの言葉を空間的に捉えると
分かってくるような気がした。
 
 
—
 
 
まず、厚み。
 
これは視覚的・空間的に捉えたら、
当然「積み重ねる」ことで養われてゆく。
 
何かをひとつ重ねる。
そのひとつは、ほんのひとひらの薄いものかもしれない。
 
それでも、それを重ねてゆくことで、
だんだんと、人としての「厚み」を取得していけるんじゃないだろうか。
 
 
積み重ねるものは、様々な形を取る。
 
本から得る知識かもしれない。
実地の体験かもしれない。
繰り返される手技かもしれない。
あるいは、別の蓄積かもしれない。
 
それを、常人とはまるで異なる境地まで重ねると、
その人には「厚み」が形成されるのではないか、と思う。
 
 
その最中に、「厚み」を阻害する要因。
それは「要約と圧縮」だろう。
 
タイパやコスパを考えて吸収する。
まとめられたものを、効率よく摂取する。
「分かった」を、早く取りに行きすぎる。
 
そうすると、今まで一枚一枚ふわりと重ねてきたものに
効率という名の重石が乗せられ、
その空間にあった余韻をはぎ取ってしまう。
 
時間をかけて咀嚼したものではなく、
インスタントに形成された圧縮に、厚みは生まれない。
 
 
—
 
 
深み。
 
これは厚みとは逆に、「掘って」行くことで養われる。
視覚的・空間的に考えても、そう考えるのが自然だろう。
 
 
何かについて、立ち止まる。
本質を探ろうとする。
 
自主的に孤独の穴へと潜り、
そこで絶望を味わい、それでも掘るのを止めない。
 
鬱は「落ちている」状態なので、掘っているのとは少し違う。
主体的な孤独と絶望こそが「深み」へといざなう。
 
 
深みを阻害する要因は、
「途中での発信」と「他者の介入」。
 
「自分はこう思う」ということを、
孤独と絶望を熟成させないうちに発信する。
 
その発信を誰も見ていなかったとしても、
深淵から目を離し、外部に目を向けたことで
深みは弱まる。
 
また、誰かの意見を聞くことで
自分の問いが他者の意見や品評にさらされ汚染される。
 
それが理解者であればあるほど、
深みから救済されてしまうので、汚染は大きい。
 
「深み」は、発信するものではなく、
無言で伝わってしまうものなのだろうから。
 
 
—
 
 
幅。
 
これは、自分の立ち位置を変えていくことから生まれるのだろう。
自分だけが「こうだ」と思っていても、世の中には様々あるので。
 
異なる人、文化、価値観、職業、世代の間を行き来する。
触れ、自分の狭さに気づき、脱皮を繰り返す。
 
特に、自分のフィールドがまったくない状態に放り込まれると
その後の幅は大きくなるだろう。
 
自分のフィールドを守った状態では
いわゆるピボットを踏んでいる状態なので、
幅は「一歩」以上は広がらない。
 
 
幅を阻害する要因は、「見聞」だろう。
 
いや、見聞そのものはいいのだが、
相手の懐に飛び込まず、「今の自分」のまま
観光をしているだけでは、幅は生まれにくい。
 
異質なものを、自分の物差しのまま採点し、
相手の常識を自分の毒として吐き出してしまう。
それだと、幅にはならない。
 
「向こう側の理屈では、こっちが間違って見える」
ということが真に腹落ちしないと、幅にはなりにくいのかもね。
 
なので、
外国に百回旅行した。
異業種交流会に百回参加した。
いろんな年代の人と知り合った。
というだけでは、幅は出ない。
 
 
—
 
 
奥行。
 
これは、時間軸が関わってくるように思う。
 
過去と未来との接続の中で、現在を捉える。
 
進んできた道、これから歩む道の途中にいる自分を
自分として認識する。
 
そして、無限の可能性がある道の、たった一本を
現在は歩いていることを味わう。
 
そんな感覚ではないだろうか。
 
 
奥行を阻害するのは、「裁き」だろう。
 
俯瞰して判断、は良いのだが、
そこに善し悪しや正誤を入れてしまうと、奥行きが歪む。
 
昔の人や自分について、
「なんでそんな馬鹿なことをしたんだ」
と言うのは簡単。
こちらは結果を知っているのだから。
 
未来についても同じで、
「このまま行けばこうなる」
と現在の延長線だけで考えると、やはり奥行きがなくなる。
 
奥行きは、
過去を現在の常識で裁かない。
未来を現在の延長だけで描かない。
 
そんな在り方で養われてゆくのかもしれない。
 
 
—
 
 
さてさて。
 
言葉って、面白いよね。
人としての話なのに 
 
「厚み」は、重ねることで。
 
「深み」は、掘ることで。
 
「幅」は、行き来することで。
 
「奥行」は、前後を意識することで。
 
 
それぞれ、養われてゆく。
 
 
また、
 
効率を考えたり、
発信して理解者を得たり、
自分の考えをもって他に触れたり、
現在から過去や未来を見たり、
 
することは、賞賛こそされ、悪いこととは思われない。
 
 
なのに、いざ人間力を養うという時には、
少しだけ邪魔をしてくる。
 
 
これからの時代がどうなるか?
そんなことは分からない。
 
でも、こうやって見てみると、
「人が人であること」は代替できないようにも思う。
 
本を一万冊読んでも、厚みがあるとは限らない。
一人で百年考えても、深みがあるとは限らない。
人脈が一万人いても、幅があるとは限らない。
経験豊富でも、それを時間軸に置けなければ、奥行きは出ない。
 
少なくとも今のところ、
人間以外のものが、それらを同じ質感で獲得できるとも思えない。
 
 
けっこう、人間の未来は、明るいんじゃないかな。
 
そんな風に思う次第でござんす。
 
 
ではでは。
 
 

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