今回は辛口&余計なお世話なので、
評価はいただけぬと思うが。
ワタシは、地に足がついていない
お花畑系スピリチュアリストさんたちには、
まぁまぁ厳しめである。
それは自覚していたのだが、他にも
「どうも、、、なんだかなぁ。。。」
と思うものがいくつかある。
先日、その共通項が分かってしまった(笑)
それが、
「外部評価をシャットアウトできる特性」
を持つものたちだ。
たとえば「100m走のタイム」「資格試験の合否」
「売上」などには、外部から確認できる基準がある。
もちろん数字がすべてではない。
売れているものが素晴らしいとは限らないし、
売れていないものがダメとも限らない。
でも、自分以外の誰かから
「いや、それは違うんじゃない?」
と突きつけられる可能性はある。
自分がどれだけ「俺、すごい!」と思っていても、
100m走のタイムが25秒だったら、
少なくとも足が速いとは言いにくい。
「いや、私の魂は9秒台なので」
とか言い出したら、もはや陸上競技ではない。
魂の世界記録である。
ところが。
「私は大天使に選ばれました」
というのは、外部評価をシャットアウトできる。
「そんなことねェだろ?」と言われても、
「あなたは霊格が低いので、分からないですよね」
と返せば、そこで話は終わる。
さらに、
「そうやって否定すること自体、
あなたの波動が低い証拠なんです」
と言われた日には、もう無敵である。
否定されればされるほど、自分の正しさが証明される。
すごい。永久機関が完成してしまった。
なので、ある日突然、何の力がなくても
自己申告で「そっち側」に行けてしまう。
しかも、他者からの検証や是正が関与しない。
これが、ワタシはだいぶ苦手なのである。
もちろん、スピリチュアルそのものを
否定したいわけではない。
というか、ワタシ自身、算命学をやったり、
長年氣功をやったりしている。
十分にそっち側の住人である(笑)
つまり、
「検証できないこと」を、
「検証させないための盾」にすることが嫌いなのだ。
ここは、けっこう違う。
そして、この特性はスピリチュアルだけではない。
たとえば「本質」。
これも、かなり強力な防具になる。
「それって本質じゃなくね?」
と誰かが言っても、
「それは、あなたが本質を理解していないから」
と言えば、そこで終わる。
「本質を知っているのに、何であなたは○○なの?」
と現実との不一致を指摘されても、
「本質とは、そういう表面的な結果ではないのです」
と返せる。
いや、そうかもしれない。
そうかもしれないが。
それを言い始めたら、本質を理解しているかどうかを
判定できるのは、本人だけになってしまう。
本質という名の、本人専用裁判所。
裁判官も本人。検察官も本人。弁護人も本人。
判決、無罪。閉廷。
なんだそれ(笑)
また、「知性」も似たところがある。
「え?それって一側面からしか見ていないですよね?」
というツッコミに対して、
「それは、あなたが私の知識のすべてを分かっていないからです」
と返すこともできる。
特に専門知識やオリジナルメソッドを持っていると、
この防御方法はかなり使いやすい。
ワタシもそうだ(笑)
「ああ、この人はまだ理解できる段階じゃないんだな」
と思えば、相手の反論を聞かなくて済む。
なんて便利な防御壁なんだ。
…おっと危ない。
どこからかブーメランが飛んできた。
しかも、だいぶデカい。
そもそも「頭がいい」というのも、
とてつもなく曖昧な能力基準だ。
処理の速さなのか?
構造をつかむ力なのか?
記憶力や知識量なのか?
具体化と抽象化なのか?
問いを立てる力なのか?
お金を稼いでいれば頭がいいか?というと、
全然そんなこともないし、どっかの大学の学者さんなら
頭がいいかというと、そこはモザイクがかかる(笑)
つまり「頭がいい」は、とてつもなく雑な基準なのだ。
なので「頭いい系キャラ」は、けっこう装える。
難しい言葉を使い、抽象的な概念を並べ、
反論されたら相手の理解不足にする。
そうして自分に反論しない人ばかりが集まると、
その小さな世界では完全に「サル山のボスザル」である。
でも、サル山の外には、
そもそもサル以外の生き物がいる。
ここが怖い。
さて。
この「外部評価をシャットアウトできる」という特性は、
実のところ人間のコミュニティが
宿命的に持っているものだ。
村。会社組織。趣味のサークル。学校。
ネットワーク。業界。地域。国。
どの世界にも独自の常識がある。
そして、その中だけで暮らしていると、
いつの間にか、それが「世界の常識」に見えてくる。
内部の人たちから認められ、褒められ、
ときにはリーダーとして持ち上げられる。
もちろん、それ自体は悪くない。
ただ、外部から何か言われても、
「うちの世界を知らない人には分からない」
で終わらせるようになったら?
自分を守るために作った壁が、
いつの間にか、世界を見るための窓まで
塞いでしまうことになる。
もっとも、外部評価を受けずに済むことは、
必ずしも悪いことではない。
というか、人間にはそういう場所も必要だと思う。
自分が否定されない場。
成果を出さなくても、そこにいていい場所。
たとえば、幸せな家庭はそうだろう。
そこでまで、
「今月のあなたの人間性、前年比マイナス12%です」
とか言われたら、たまったもんじゃない。
人は24時間365日、
誰かに評価され続けていたら、すり減ってしまう。
だから、外部評価を遮断できる場所は必要だ。
必要なのだが、人生のすべてが、
そこだけで完結してしまうのは、ちょっと危なくないか?
と思うのである。
特に、リーダーシップを期待されている人は、
意識して、自分から「外」に出た方がいい。
自分の肩書が通用しない場所。
自分の専門知識が役に立たない場所。
自分よりも、はるかに優秀な人がいる場所。
自分の常識が、非常識になる場所。
いつもは「先生!先生!」と呼ばれている人が、
まったく別の世界に行った途端、
「で、あなたは何ができるんですか?」
と真顔で聞かれる。
これは、かなりいい。
いや、本人はちっともよくないかもしれない(笑)
でも、そこにこそ、自分を広げる余地がある。
もちろん、外部評価が常に正しいわけではない。
世間からどれだけ否定されようと、
信念を貫くべき時だってある。
だから「他人の言うことを聞け!」
と言いたいわけではない。
「他人の言うことによって、
自分の考えが覆る可能性を残しておけ」
と言いたいのだ。
聞いたうえで、違うと思うなら違うでいい。
反論したっていい。譲らなくたっていい。
ただ、最初から
「あなたには分からない」
というシャッターを下ろすな、ということだ。
シャッターを下ろせば、雨も風も批判も入ってこない。
快適。とても快適。
でも、空気も入れ替わらない。
どんなに素晴らしい人格や頭脳を持っていても、
ずっとその中にいれば、淀み、腐っていく。
自分の思想で自分を漬け込んだ、
立派な古漬けが完成してしまう。
しかも本人は「熟成した」と思っている。
こわいこわい。
自分が否定されない「家」があり、
自分が鍛えられる「外」がある。
そんな状態が、けっこう健全なのではないかと思う。
「家」では安心していればいい。
でも「外」に出たら、自分が通用しないことも受け入れる。
自分が間違っていたと知ることもある。
今までの信念を根底から揺さぶられることもある。
それでいい。
たとえ世界各国を歩き回っていても、
何万人もの人と会っていても、
SNSで毎日発信していても。
自分の正しさが絶対に傷つかない場所だけを
選び続けていたら、
それは広い意味での「引きこもり」ではないだろうか。
身体は外にいる。
でも、自分の価値観だけは、一歩も外に出ていない。
どこに行っても、自分専用のサル山を持ち歩いている。
携帯型サル山。
そんな便利なものがあるのか(笑)
ちなみに、ここで言う「引きこもり」は、
家から出られない人のことでも、
外部評価を恐れて苦しんでいる人のことでもない。
自分の正しさを守るために、
外部評価そのものを無効化してしまう態度のことだ。
そして。
そういう生き方を選んだとしても、
本人が幸せなら、それはそれでいいと思う。
余計なお世話だ。
本当に、余計なお世話なのだ。
ただし。
自分は外部からの評価を一切受け付けないのに、
他人に対してだけは、好き放題に評価を下す。
これは、どうなんだろう?
「あなたには本質が分かっていない」
「あなたは霊格が低い」
「あなたは知性が足りない」
と他人を採点する。
でも、自分が採点されると、
「あなたには私の価値が分からない」
と、すべて無効。
いやいやいや。
自分は審判席に座りっぱなしなのに、
他人の試合にだけ点数をつける。
しかも、自分の判定には異議申し立て不可。
なんて素晴らしい競技なんだ(笑)
もちろん、小説を書いたことがなくても
小説の批評をしていいし、
政治家になったことがなくても政治を批判していい。
そこに資格なんて必要ない。
ただ、自分の評価もまた、誰かから評価される。
自分の意見もまた、間違っているかもしれない。
その可能性は、引き受けておいた方がいい。
他人を評価する自由はある。
でも、自分だけが評価されない特権はない。
さてさて。
ここまで偉そうに書いてきたが、
これも完全なるワタシの個人的な好みである。
ワタシ自身、専門知識も持っているし、
自分なりの思想もメソッドも持っている。
文章も書く。人に教える。
人様のビジネスに口を出すこともある。
つまり、かなりサル山を作りやすい人間だ。
しかも、居心地のいいサル山を作れてしまう立場でもある。
気を抜くと、
「ああ、この人たちは、まだ分かっていない」
なんて、自分の世界の中だけで
人間を分類し始めるかもしれない。
いや、もうやっている時もあるだろう。
なので、できるだけ、
自分が通用しない場所にも出ていきたい。
自分の正しさを確認するためではなく、
自分が間違っている可能性を知るために。
スピに逃げるな。
本質に逃げるな。
知性にも、実績にも、肩書にも、逃げるな。
もちろん、そこに価値がないという話ではない。
むしろ価値があるからこそ、
自分を守るだけの盾にするのは、もったいない。
そして何より。
自分の正しさに、逃げるな。
…と、自分に言い聞かせておこうと思う。
なんか今日、ブーメランが多いな。
帰宅する頃には、全身に刺さってハリネズミになっていそうだ。
ではでは。
