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それ、ベースできてる?

先日、尊敬している友人が発信している
音声を聴いていた。
 
音声の詳細を伝えるのはマナー違反だと思うので
それは差し控えるが、その音声の一部に、
 
「仏教と密教の話」
 
があった。
 
 
(原初の)仏教では、
妻帯禁止、真言禁止、術の使用も慎重。
 
ところが密教の経典のひとつである
「理趣経」では、「性行為も清浄」とされてたりするし、
真言もあるし、術もある。
 
 
それだけ見ると、
 
「え…は…?真逆じゃん!?」
 
となるのだが、どちらも目指すは悟りの境地である。
 
 
で、
 
友人の発信するところによると、
「それは、時代の土壌もあった」という。
 
 
ブッダが生きていた時代に、もし
 
「性的エネルギーオッケー!
 性交で正常に清浄して成功栄光デイコウ!」
 
なんて言ってしまったら、
まず99%の人が欲望に溺れてしまう。
 
なので、ブッダは「あえて」そういった欲望を
抑制するような教えを広めていったのではないか?と。
 
つまり、
 
「まずはデトックスしないと、悟りに近づけない」
 
ということを流布していったのだろう、と。
 
 
そして時代が進み、空海が活躍するような時代になると、
 
「ちゃんと目に届くような範囲で、
 デトックスできている人限定であれば、
 性的なエネルギーすらも活用した方が、
 悟りに近づけるのではないか?」
 
ということで、理趣経等の教えも
空海により受容されていった流れがあるのかも?と。
 
 
デトックスした状態のうえで、
性的なエネルギーも活用するのであれば、
その圧倒的なエネルギーに振り回されるのではなく
悟りの速度と深度を高められるのではないか?
 
といった考えだ。
 
 
友人の話は、もっと深く、もっと面白く、
そしてもっと奇想天外だったが、そんなところだ。
 
本人も、
「仏教・密教という深淵な教えの
 ごくごく一部を、自分なりに解釈した」
と言っているので、異論はもちろんあるだろう。
 
しかも、それを知識の裏付けのないワタシが
ぺらぺら~っと書いているので、
本当に申し訳ない気持ちで五体投地だ。
 
 
で。
 
なぜこの話をお借りしたのか?というと、
 
「教えの順番、ってあるなぁ」
 
ということを、あらためて振り返ったからだ。
 
 
教える側って、ついつい
自分がうまくいった方法を、
相手の状況をなにも踏まえずに伝えがちだ。
 
でも、実際は
どんな教えも「受け取る側の下地」があってこそ効く。
 
お医者さまは、まず問診をして、
患者さんの状態を診察してから、
実際の治療に入る。
 
 
なので教える側も、一人一人に対して、
 
「今、どのような状態か?」
「学ぶベースとして、何を知っていて、何を知らないのか?」
「仮に教えたとして、誤解をしたり悪い道に進まないか?」
 
ということを注意していくべきなのだろうなぁ、
なんてことを感じた。
 
 
なので、真っ当な講師は、
 
「Aさんに伝えていることと、
 Bさんに伝えていることが全然違う」
 
ということを恐れない。
 
 
それぞれの「症状」に合わせた「処方」をお伝えするのが
真の意味での愛情だと理解しているからだ。
 
講師は生徒に平等である必要はない。公平であるべきだ。
しかもその公平も、同じゴールを目指すものですらなくていい。
と思う。
 
 
 
さてさて。
 
考えてみれば、神話の「いなばの白ウサギ」も、
はじめオオクニヌシさまの兄神さまたちに、
 
「海水で洗って、風で乾かしなよ!」
 
と言われて「ウサギ、ギャーッ!」ってなったけれど、
これって、デトックスだったかもだよね?
 
 
で、そのデトックスが行われているのを確かめて
オオクニヌシさまは、
 
「真水で洗って薬草(蒲の穂)をつけなよ」
 
とアドバイスしたのかもしれない。
 
 
どんなに「いいもの」であっても、
まずは準備ができていないと逆効果だ。
 
それをデトックスだったり、ベースができていない人に
無考えで提供するのは、よろしくないのかもね。
 
 
私自身も、自分が受け取る時には
「自分が、それに見合うベースとなっているか?」
を意識し、何かをお渡しする時には
「この方にとって、これは今、本当に有用か?」
を意識していけたらな、と思いまする。
 
まぁ、両方とも難しいのでごじゃりますが。
 
 
ではでは。
 

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