なぜなのかは全くもって分からない。
また、いま書くべきなのかも分からない。
しかし、あまりに周りで(ワタシ含む)
多発しているので、書くことにする。
これを読んで、心が助かる人が
一人でもいると信じて。
—
人は、変化するときがある。
それは仕事が変わったりすることもあれば
人間関係が変わったりもある。
また、そういうことにとどまらず、
「人としての生き方」
「人生の歩み方」
といった、在り方やアイデンティティの変質という
変化を起こす時がある。
その時に、絶対、どうしても避けられないのが
「サヨナラ祭り」
である。
そう。サヨナラ祭り。
グッバイ・フェスティバル。
それは、今まで大切にしていた
人、もの、仕事、考え方、生き方と
サヨナラをする一連の流れ。
自分を生きるために
どうしても避けられない通過儀礼。
そんなサヨナラ祭りだが、自らが、
「もうそろそろ、潮時だな」
と、今まで抱えていたものを
手放すのであれば、それはまだ容易い。
ダメージも低い。
でも、そうではなく、多くの場合は、
「サヨナラは、強制的に」
進められる。
突発的に起こる事故。
長期の入院。生死のさまよい。
今までスルーしてきたことの蓄積。爆発。
大切な友の、急激な変化。
会社の倒産、クビ。
家族から始まる問題の勃発。
さまざまな形を取るけれど、
あとあとになって思えば。
そんな大きな事件が起こる前から
サイン、兆候、みたいのがあって。
「お前、そろそろ気づけよ」
と、大いなる存在に言われていたな、
みたいなシーンを振り返ることが
できたりもする。
そして、このサヨナラ祭り。
たちの悪いことに
、、、というか自然の摂理上、どうしても、
「新しいものが入り込んでくる前に」
起こる。
そりゃそうだ、なのだが、
パンパンにつめこんだ瓶に
あたらしい飴は入れられない。
満員の電車やエレベーターに
新しい人が乗るためには、
そこで降りる人が先に出ないといけない。
それと同じように、
サヨナラ祭りがバンバン起こって、
身も心もボロボロになって、
耐え難い空虚感と絶望感に苛まれて、
それから(またイジワルなことに)
しばらく時間が経った後、
新しい風が吹き込んでくる。
そんな仕組みになっている。らしい。
自分の魂、心情と一体化していたものが、
血なまぐさい爪でえぐりとられ、
もう、明日なんて来なくていいんじゃないか?
と諦めきったあとに、
今までとはまったく異質の
「風」が吹き込んでくる。
しかもそれは、はじめのうちは
心地のよいものでなかったりもする。
「あの代償のかわりに入ってくるのが、これ?」
と、愕然とするようなものかもしれない。
でも、それはきっと
自分自身のこれからに必要なものへと
ゆっくりと、しかし着実に更新されてゆく。
それは、人のこともあるだろう。
仕事のこともあるだろう。
パートナーのこともあるだろう。
あるいはまったく別の何かのこともあるだろう。
そして、サヨナラ祭りを経て、
アップデートした暁には、
サヨナラしないまま進んだ道とは
全く異なる、あなたが刻まれてゆくのだろう。
あなたはきっと学んだ教訓を糧に進んでいく。
だから、たぶん。
楽しい!も大事だけれど、
恐怖や、足を引きずりながら進む道に
新しい自分はいるんじゃないかな?
なんて思ったりもする。
ワクワクの先には、つるむ友達がいて、
ボロボロの先には、集える仲間がいる。
そんな風に思うんだよね。
さてさて。
秋だからそうなのか、
たまたまなのか?
それは分からないけれど、
もしこれを読んだあなたに
「サヨナラ祭り」
が起こっているのであれば、
ささいな、ほんのささいなものかもしれないけれど、
支えのひとつになっていたらうれしいな。
大丈夫、大丈夫。
ワタシも他人事じゃないから。
最大の敬意と、感謝を。
ありがとう。本当に。
ではでは。