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心配の正体

本日は、前回のつづき。

あれから、また
ちょっと考えてみたのだけれど、
心配をしてしまう人の気持ちって、
つまるところは一つしかないんだと思う。

その気持ちっていうのは

「あなたとの関係を変えたくない」

というもの。

たとえば、

子供がケガをしてしまうのも、

大切な人が何か失敗をして傷ついてしまうのも、

旅先でトラブルに巻き込まれてしまうのも、

もし、そうなってしまったら、
間違いなく、今の平穏な関係性が変わってしまう。

それを拒否しているのが「心配」なんじゃないかな?
と思う。

でもね。

今のはネガティブな感じだけれど、
実は、ポジティブな変化であっても、困る。

だって、関係性が変わっちゃうんだから。

たとえば、

子供がどんどん成長してゆくのも、

大切な友達が大成功して、
自分とは違う世界に行ってしまうのも、

自分が体験をしたことのない体験をして変化するのも、

心配をする人にとっては、ある意味
恐怖なんじゃないかな?と思う。

自分が必要とされなくなるんじゃないか?

自分のもとから、いなくなってしまうんじゃないのか?

自分の話を、もう聞いてもらえなくなるんじゃないのか?

そんな「関係性の変化」への恐怖がある。

でも、だからと言って真正面から

「あなたの変化は、
たとえポジティブなものでも許さない」

とは言えないので、相手を「思いやる」という形式を
(無意識に)取って、

「心配」

となっている時もあるんじゃないかな?なんて思う。

みんなはどうか分からないけれど、私自身が
誰かを心配してしまう時には、
心のどこかに、そんなエゴがあるように思う。

その点、応援は、まるで逆だ。

「あなたの変化を後押しするよ」

というエネルギーだ。

自分との関係性にフォーカスがあるのではなく、
あくまで相手のポジティブな未来に焦点がある。

仮に二人の関係性が変化したとしても、
それはそれでかまわない。

そんな気持ちが、本当の応援なんじゃないかな?
と思う。

心配、応援。

その根底にあるのは
ポジティブ、ネガティブということではなく、

「変化しないで」

「変化して」

という、真逆のエネルギーのように思う。

人は、絶えず変化する。

万物は、間違いなく変化する。

それなのに「変化しないで」という願いをかけてしまうのは、
不自然で無理のある「呪い」だ。

相手も変化する。

自分も変化する。

その中で、毎瞬毎瞬、新しい関係になる。

離れる時もあるだろう。

どちらかが幸せな時、どちらかが辛い時もあるだろう。

それでも、

「変化、オールオッケー!」

と言えるオープンな気持ち、
応援できる気持ちを持っていたいものだよね。

自分自身、どこまでできるか分からんけれど
意識したいと思いますわ。

ではでは。

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