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ギブも飽きた。

ギブも飽きた。
  
ギバー(与える人)と、テイカー(奪う人)
みたいな話って、ありますやん?
 
もちろん、奪う人よりは与える人の方がいいし、
そのような人でありたいとも思うんだけれど。
 
なんか、この分け方に
ちょっと違和感を感じるようになったのは、
ワタシがおかしいのか?齢のせいか?
 
 
いやね。
 
「与える」「奪う」って、なーんか
二項対立になってて、さらに
 
【 与える「から」成功する 】
 
みたいな、さもしいというか、下心アリアリで釣る、
みたいな印象もある(ワタシだけ?)
 
 
なんか、よろしくない方の西洋的というか、
所有という概念ありきというか。
 
もっともっと本質的な意味においての
「与える」があるのも理解しているつもりだけれど、
ギブギブ言いすぎるのも、なんかウザったいなー、と。
 
 
 
ワタシは人間ができていないので、
自分がギブを意識して与えまくっていると
すぐに心がギブ・アップしてしまう。
 
 
なので、そんなに好きでもない人に
ずっとはギブできないし、
 
そんなに好きでもない人に
ギブユーされ続けても、ブキミーに感じてしまう。
 
 
相手がそのつもりじゃなかったとしても、
 
「なんか、お返ししなきゃいけないんじゃないか?」
 
と、微弱な「圧」を感じてしまうと、自由じゃなくなる。
 
 
 
だから。
 
個人的には「テイク」も「ギブ」も
そんなに意識しなくてよくね?
 
と思い始めてて、
 
 
どっちでもない
「プット(置いておく)」
くらいでええわ、なんて思う。
 
 
自分が良いと思うものを、
誰かにギブするのではなく、
その人が手に取れるところに「置いておく」。
 
それは形のあるものの場合もあるし、
無形のものの場合もある。
 
 
で、
 
誰かが必要だったら持って行ってもらえばいいし、
誰もいらないんだったら、
また新しいものを置いておけばいい。
 
 
なんか、
 
「ご自由にお持ちください」
 
みたいに、自分の生活を
切迫しない範囲のものを置いておく。
 
で、誰が持って行ったかも知らない。
 
そんな塩梅でいる時の方が、ご機嫌な気がする。
 
  
これは崇高なのでもなんでもなく、
ワタシ自身が「ギブしよう」と思うと疲れるから
そんなスタンスを取るだけだ。
 
 
ギブもしないし、陰徳も意識しては積まないし、
ボランティアもしないし、命がけで人助けもしない。
 
 
ただ、
 
「これ、誰かが役立てることがあるかも?」
 
ってコトやモノを、置いておく。
 
 
電車で座ってる時、
怪我してて大変そうな人がいたら、席を立つ。
ただ、その人に声をかけることもしない。
 
相談ごとをされたら、
その時の良かれと思うことは話す。
でも、その人がアドバイスを採用するかどうかは詮索しない。
 
それでよくね?
 
 
ギブしたわけじゃなく、プットしただけでいい。
そのくらいの方がワタシは疲れないし、面倒じゃない。
 
 
 
、、、とまぁ、そんなことを思いつつも、
その日その日の気分でコロコロ変わるんだがね。
 
 
めっちゃ「あれも欲しい!これも欲しい!」ってなって
人の迷惑かえりみずテイク一直線の時もあるし、
 
 
「さぁ!!!!!!
 今こそワタシを思いきり褒めなさいっ!!!!
 なぜなら、こんなにギブしたのだからっ!!!!!」
  
と、承認欲求ニンニクアブラヤサイマシマシの時もある。
 
 
ただ、なるべくテイクもギブも追わない方が、
あとで胸やけせずに済みそうだ、とも思う。
 
 
みんなでギブもテイクもせず、
プットして「ご自由にお持ちください」ってぇのが、
なんか本来の日本の奥ゆかしさなんじゃないかな?
 
いつも、自然とそうなれるといいなぁ、
なんて思うのですが、現実のワタシはまだまだでござんす。
 
 
ではでは。
 

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