僕らがもし、何日も食べられなかったら
どうするだろう?
お腹がすきすぎて、判断力が落ちて
もう、どんなものでもいいから口に入れたくなるだろう。
その辺に生えている草も食べるかもしれないし、
カビて固くなったパンや泥水でも口に運ぶかもしれない。
また、ジャンクフードばかり食べていたら、どうなるだろう?
おそらく薄い味つけの違いは分からなくなり、
ケミカルに作られた味を「普通」と思うだろう。
胃腸の炎症を「満腹」と認識し、
中毒になっていることに気づかず、
コントロールの術中に堕ちるだろう。
で、それって。
たぶん愛情も同じなのじゃないだろうか?
そりゃ誰だって、あたたかい愛情をやり取りしたい。
でも、それが得られないことが何日も、何年も続けば、
「もう、どんなやり取りでもいいから、
人からの反応を得たい」
と思ってしまうのではないだろうか?
その結果が、ストーキングなどの
相手に迷惑をかける執着となり、
「嫌がられているという反応」
で、愛の飢餓を埋めようとするのかもしれない。
あるいは、騙されていると知りながらも
優しい言葉をかけてくれる人の沼へ
自ら飛び込んで行ってしまうのかもしれない。
あるいは、濃いい、ベタベタの愛情で
愛の肥満に陥ってしまった人は、
人の本当の愛情の「味」が判別できず、
「その場でおいしい愛情がすべて」
と思ってしまうかもしれない。
それがたとえ人工的な、化学合成の愛だとしても、
そちらを選んで、ブクブクと精神的な炎症を起こし
それが「普通」と麻痺してゆくかもしれない。
目の前にきちんとした愛があっても、
そちらには目も向けずに、
ジャンクな愛をむさぼり続けるかもしれない。
その上で。
そのような人に、
「そんな愛を食べちゃダメ」
「もっといい愛があるでしょう」
とだけ言うのは、なかなか残酷な気がする。
パンがなければ、ケーキを食べればいいじゃない?
と言い放つマリーアントワネットに近しい。
愛情の飢餓状態に在る人に、
真っ当な愛を提供し続けるのか?
愛情のケミカル中毒になっている人に、
その「舌」の麻痺が解消するまで
愛を注ぎ続けるのか?
それは、相当の覚悟が必要なことだと思う。
完全に飢餓になっている人に、
・カビたパンを与えるのと、
・何も与えないのと、
・「こういう食事がある」と口だけで言うのと、
一体、誰が一番「親切」なのだろう?
美味しい食事を与えるのが一番の親切だろうけれど、
飢餓状態だった人がその後どういう行動を取るのかは
ひとつの選択肢だけではない。
感謝か?服従か?習慣化か?収奪か?
そう考えると、
「どれだけたくさんの飢餓の人が来ても、
ずっと食べ物を与え続ける」
ですら、完全なる正解とも限らないのだ。
そういう意味で、私は冷たい。
自分ができる範囲の愛情は分かち合うが、
しつこくクレクレ言われたら、サイナラだ。
「うまい飯が食いてぇ!」
というのなら、
「じゃあ、それが食えるだけの人になりやがれ!」
と思い、そのヒントくらいは提供するかもだが、
あとは「本人しだいやろ」と思っている。
そもそも、私自身の愛情だって
「ちゃんとした栄養」なのかすら疑問なのだから。
人によっては足りないかもしれないし、
カロリー過多かもしれないし、
人工的かもしれないし、
コントロール入りかもしれない。
みんなの「味の好み」が違うのと一緒で、
「愛情の塩梅」も正解がない、のだろう。
となると、もう
「直接間接で関わる人に、
自分が良いと思う愛情を、
自分の出来る範囲で黙々と供する」
ってことしか、なくね?となる。
しかも、日によって余裕度によって
気分によって味がブレまくる「愛情食堂」に
ふらりと立ち寄ってくれた人に届けてゆく。
それしかねぇなぁ。という
オチにもなんにもならない結論にしか
今のところは行けない。
さてさて。
となると、
「そんなものを食べちゃダメ!」
というのも、その人なりの「食堂方針」だし、あるいは
「ギッチリゴテゴテのアブラマシマシよ!」
というのも、そんな「食堂」なのだろう。と。
敷居が高い、一見さんお断りの料亭のような
愛情を供する人もいるし、
自分は提供せず、愛の食レポするだけの
評論家もいるのだろう。
そんな中、私が目指す「愛情食堂」は、
「好みかどうかは分からんけど、一回、食べてみれば?」
と、素敵な愛を配っている人にも
口コミされるようなところになればいいかな?なんて思う。
あなたの「愛情食堂」は、
どんな場所を目指します?
ではでは。