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愛の反対は?

どーでもいい話かもしれないのだが。
 
「愛の反対は?」と問われた時、
多くの人は何と答えるだろう?
 
色々な答え方があると思うのだが、
マザー・テレサさんの名言から、
 
「愛の反対は、無関心である」
 
と答える人も多いように思う。
 
 
もちろん、この答えもしっくり来るし、
マザー・テレサさんにケンカを売るつもりはない。
 
ただ、「反対」というのは、
また別の捉え方もあるようにも思えてしまう。
 
 
愛は、エネルギーだと思う。
そこは理解してもらえると思う。
 
そして、無関心にエネルギーがあるか?
というと、私には、愛と同じくらいの熱量は
ないように感じられる。
 
むしろ、エネルギーとしてはゼロだ。
 
 
私としては「反対」というと、
同じようなエネルギー量で、
かつ対極に位置するもののように思うのだ。
 
 
たとえば「男性」の反対は「女性」。
 
これは同等のエネルギーを持っていて、
かつ存在としては対極となるように感じる。
 
「男性の反対は中性」、とは、
いくらLGBTQの時代であっても、
言う人は少ないように思うのだ。
 
 
また、「右」の反対は「左」。
 
男女と同じように、
同等であり対極の言葉だと思う。
 
「右の反対は真ん中」というのも
答えとしてアリかもしれないけれど、
ちょっと「ん?」と思ってしまう。
 
 
もちろんマザー・テレサさんが
人々に伝えようとした意図は、充分に分かる。
 
そして「愛の反対は無関心」は、
多くの人へ、愛を喚起させるきっかけにもなった。
素晴らしい。
 
 
しかし、その素晴らしい答えに敬意を表した上で、
そこで思考停止するのではなく、
「愛の反対」を考えると、やっぱり
 
「そうじゃないよな」 
 
という考えにも至ってしまうのだ。
 
 
「無関心」は、
仮に、「愛」を図で描いたとすると、
点対称の「点」に位置するように思う。
 
その「点」を超えて、
その真逆に位置するのが、
本来の意味での「反対」な気がする。
 
 
陰の反対は陽であり、
陰陽図の中心ではないだろう。
 
海の反対は山かもしれないし、
空かもしれないし、陸かもしれない。
が、海面じゃない気がする。
 
そんな違和感を
「愛の反対は無関心」に感じるのだ。
 
 
エネルギーがピタリとゼロになる点が
「無関心」で、そこから逆の極のエネルギーが
始まるように思う。
 
もちろん、解釈の遊びだから
色んな意見があっていいと思うのだけれど。
 
 
で。
 
 
そんな中で、私が個人的に考える
「愛の反対」は何か?というと。
 
それは「恐怖」なんじゃないかな?と思う。
 
 
よくお目見えするのは「憎しみ」かと思うのだけれど、
それは何となく愛の変化形というか、亜種というか。
 
純粋に対極にあるエネルギーじゃないような感じ。
あくまで、私の個人的な感覚だけれどね。
 
 
恐怖があるから攻撃し、侵略し、破壊する。
 
愛があるから守り、抱擁し、創造する。
 
 
そんなイメージなのだが、
あなたはどう感じるだろう?
 
異論は100%認める。
感覚の話だから。
 
 
 
さてさて。
 
今回の話は、
 
「で?それが分かったから何なの?」
 
という話でしかない(笑)
 
 
そもそも「反対」というのが
とても抽象的な概念なので、
いろいろな見解ができるのだろう。
 
そして、その見解にバラエティがある事が
知的活動の素晴らしさでもあるように思う。
 
 
その「反対」は、
点対称の「点」を示しているのか?
それともその先にある「対極」を示しているのか?
 
そんな事を考えてみるのも、
視点を増やす、いいきっかけになるのかもね。
 
 
ではでは。
 
 

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