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そのハンデは、個性になる。

すげーワタクシ事なのだが、私は左利きだ。
 
別にどーってことないし、
今では誰かとごはんを食べる時は
なるべく左サイドに座った方が、
お互いにエルボーがぶつからないかな?くらいだ。
 
 
ただ、幼少期とか学生時代は、そうではなかった。
 
左利きは「矯正すべきもの」として、
字を書くのも、箸を扱うのも、ハサミも直された。
(直さなかったが)
 
 
その中でもしんどかったのが、書道の時間。
 
「書は右で書くものである」
 
というのが揺るがない時代だったので、
みんなよりも遅く、そして当然ヘタだった。
 
私の本名は、まぁまぁ画数が多いので、
名前は「▲||■▲||」みたいになり、読めなかった。
 
 
かと言って、書道の先生をめっちゃ恨んでた、
みたいなことはなく、
 
「なんでやねーーん!!!!」
 
という思いのまま、授業時間を過ごしていた。
 
今から思えば、あの時に初めて感じていたものこそが
「不条理」という名がつけられた感情なのかもしれない。
 
 
 
しかし。
 
時は流れ、今は「左利きです」と言っても、
 
「うわっ!ウザっ!」
「気の毒に。。。。」
 
みたいな反応をされることはなく、
人によっては、むしろポジティブに捉えてくれる人もいる。
 
 
 
そんなことからも、思う。
 
 
たぶん、今、社会的な不条理を感じている人もいるだろう。
 
 
でもそれは、時を経るにしたがって少しずつ
 
「差別する意味、なくね?」
 
という風に、社会が気づくことになる。
 
 
社会が成熟すればするほど。
 
他者を画一化することが無意味になればなるほど。
 
 
 
「男性はこう。女性はこう」
というのも、昔ほどは少なくなっているだろう。
 
LGBTQとかも、これからおそらく今よりも
話題にもならない「普通」になってゆく。
 
そしておそらく「うつ」とかも、
病名としての認識ではなく、
イライラとかと同じような「その時の心の状態」に
なる日も来るかもしれない。
 
 
個人的には、
 
「差別はマジョリティの勘違い。
 ただ、区別は必要」
 
というスタンスだ。
 
 
違うものを無理やり「同じ」「一緒」にするのは狂ってる。
 
たとえば足が速い、遅いはある。
それを「みんな一緒にゴール」なんてのはバカげてる。
 
足が速い人が活躍する場では、活躍すればいい。
 
遅い人は、早くなるようがんばってもいいし、
他の分野で活躍してもいい。個人の自由だ。
 
 
ただ、そこから
 
「足は速い方がいい」
 
と考えているマジョリティが勘違いをして
足が遅い人を「劣等」とすると差別になってゆく。
 
 
 
なのでワタクシ的には
 
「区別は明確に細かくてもオッケー。
 差別はバカバカしい。
 が、それと個人的好き嫌いは別の話だからな」
 
という感じだ。
 
 
 
ってなワケで、話が少しずれたが。
 
 
今、もし何かの「ハンデ」で苦境に立っているのであれば。
それはいつか「個性」と呼ばれるようになる可能性も高い。
 
 
ただ、それを本人が「ハンデ」だと思い続けている限りは、
その本人の中では、いつまで経ってもハンデのままだろう。
 
 
もちろん、中には、
そんな簡単な話では済まないようなものもあるのも承知。
 
 
ただ、 
 
「世界は成熟し続けて、どんどんマシになり続けている」
 
「この不条理も、いつか個性になる」
 
「そんな例は、枚挙にいとまがない」
 
という方にもフォーカスしてみるのもアリかもしれないよね。
 
 
 
区別、判別。
 
差別、偏見。
 
好き嫌い、合う合わない。
 
 
それらをまさに分けて考えてみるのが、
ものごとがスッキリしていく道筋なのかもしれないね。
 
 
ではでは。
 
 

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