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感情こそが命、の時代。

先日、あるポリティカル(政治的)な討論を
YouTubeで見ていた。
 
一方のAさんは客観的なデータに基づき、
論点をぶらさず、ずっと忍耐強く相手の話を聴き
討論を進めていた。
 
もう一方のBさんは、隙あらば相手の話の腰を折り、
論点をすり替え、相手の話を部分的に切り取り
正当性を叫んでいた。
 
 
私個人としては、忍耐強く理性的に話を進めた
Aさんに大きな尊敬の念を抱いたし、
これからも活躍して欲しいと願った。
 
ただ、同時に、現代社会の日常では
Bさんの方が物事を切り拓いていくだろうな、
とも素直に感じた。
 
 
なぜなら、特に今の世の中の9割以上は
感情で動いているからだ。
 
 
 
大昔は、何かを決着させようとした時に
暴力を使うのは容認されていた時代もあった。
 
戦争とか決闘とかそういう話ばかりでもなく、
日常においてもそうだ。
 
ブン殴って黙らせる。それでOK。
そんな時代もあった。
 
 
しかし、今それをやったら
少なくとも長期的に見れば、ほとんどアウトだ。
 
どんなに身体能力が高く、
やろうと思えば相手を暴力的に屈服させる力があっても、
今、それを行使するのはNG。
 
暴力をふるっていいのは、お互いの合意がある
格闘技などのリングの上だけ、となっている。
 
 
 
そして時代は進み。
 
少し前までは、何かを決着させようとした時に
知性的議論を用いるのは当然、という風潮もあった。
 
相手との意見が違う場合は、
お互いの正当性と合理性をぶつけ合うことで
どちらかが自分の正しさを証明する。
 
感情論と知性的合理性とでは、
後者の方が優れている、とするのが「常識的」だった。
 
 
しかし、これも暴力と同様、
グラデーション的にNGの方向になりつつある。
 
もちろん、裁判の場においてとか、
討論の場においては、知性が求められる。
 
つまり、知性もまた暴力と同様、
「リング」の上でなら許される方向に
少しずつ、少しずつ時代が動いているように感じる。
 
 
「いや、世界は知性で動いてますよ。
 感情では動いていない」
 
という意見もあるだろう。
 
 
その上で、
 
政治の場において、
仕事の場において、
家庭という場において、
 
感情で動いている場面と知性で動いている場面。
どちらがより優位にシフトしているだろう?
 
意見が分かれるかとは思うけれど、
感情が動かしている場面も多いように思うけれど、どう?
 
それは、決定権を持つもの(民衆、市場、「上役」など)が
感情的な動機で動いていることも多いからだ。
 
 
 
変な話、しかも私的な体験で恐縮だが、
私がもっと若かりし頃、何か意見がぶつかった時、
よく使っていた武器は「言葉」だった。
 
議論というリングに相手と自分が立ち、
ゴングが鳴ってしまえば、
こちらは言葉を縦横無尽に巡らせられる。
だから、まぁまぁの確率で勝った。
 
いや、勝ててしまった。
 
 
しかしその結果、生まれたのは
相手との感情的な「もつれ」だったり、
まったくお門違いな報復だったりもした。
 
 
そんな反省点もありながら世界を見ているから
「世界は感情で動いている」というフィルターが
かかってしまっているかもしれない。
 
 
けれど、いずれにしても少なくとも私は
 
「相手と議論を戦わせる必要がある場面は
 とてつもなく限られている」
 
「相手が感情で動いているのに、
 言葉のリングに上がらせるのは失礼だし、
 お互いに得るものがない」
 
と思っている。
 
おそらく、プロボクサーが突然
私にアッパーカットをかまして来ないのと
同じような心境と理由によるものだろう。
 
 
 
さてさて。
 
 
「声の大きな人が得をする」
 
みたいなことは、あまり良くないことみたいに言われる。
 
でも、これからの時代は、
一概にはそうとも言い切れないんじゃないかな?
とも思う。
 
 
大昔は、腕力の強い人が時代を創った。
 
ひと昔前は、知力の強い人が時代を創った。
 
 
だからこれからは、感情のエネルギーが強い人、
「すき、きらい」を明示し、そこに共感を生み出せる人が
時代を創るようになっても、それは順番的にフェアだ。
 
「そんなバカな!感情?カオスになる!」と?
 
いや大丈夫。どんな時代でもカオスだったし、
それでも人類は成熟を重ねていっているから。
 
 
暴力は、現代ではリングが必要になった。
 
同じように知力も、現代ではリングが必要になりつつある。
 
だから、感情の力こそが、これからを動かしていくだろう。
 
(まぁ、あと1つ要素があるが、それはまた別の話で)
 
 
(あくまで)日常においては、
相手の感情を汲む方が良い場面が多くなってゆく。
 
大昔、暴力が猛威をふるったように。
それがない人は、虐げられていたように。
 
ひと昔前、知性の高さが何かを得る力になったように。
それがない人は、社会的な不遇を強いられたように。
 
今後は感情的なコミュニケーション力がないと、
マジで死活問題になるようにシフトしているように感じる。
 
 
なので、
相手が大切な人であればあるほど愛情を持って接し、
イラっときてもスルーした方がいいし、
何回もイラっとされたら去ルーという選択肢もあるだろう。
 
自分が不快になるのは無駄だし、
もし自分が誰かを不快にするのであれば申し訳ない。
その場にとどまる必要はない。
 
 
腕力や知性よりも感情・心・共感。
 
その力がこれからを創っていくと思うのでありんす。
 
 
ま、今回の話は極論だけどな。
昔から「そう」である事も多いし、
今だって「そう」である事も多い。
 
ひとつの時代の流れの傾向として
こんなフォーカスがあってもいいかもね、ってことで!
 
 
ではでは。
 
 

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