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怒りは勇気と共に。

最近「キレるおじさん」みたいな発信が
ちょくちょくあるよね。
 
頭がキレるのであれば歓迎なのだが、
怒りをぶちまける方のキレる、なので厄介だ。
 
飲食店やコンビニの店員さんに文句を言ったり、
電車内でぶつかっただの何だの言う。
そういう現場を見たことも、まぁ、あるよね。
 
 
しかし、そういう人が
「感情のコントロールができていない」
のかというと、そんなことはないのだろう、と思う。
 
なぜならば、そういう人は
相手を選んでキレているからだ。
 
キレおじも、店員さんがゴリゴリマッチョの
ラオウみたいな人だったら文句を引っ込めるだろうし、
電車内でぶつかったのがメーテルだったら、
そのまま銀河鉄道で機械の体をもらいに行くだろう。
 
「怒り」という感情の発生は自動だとしても、
それをどう表すかは姑息に計算しているんだわ。
もう、いやぁねぇ~。
 
 
ちなみに個人的には、怒りという感情そのものは
生命に与えられたギフトであろうとも思っている。
 
怒りがあるからこそ、いち生命体としても、
人間としても成せることがあるようにも思う。
 
(ちなみに関係ないが、
  ” 怒りは二次感情である ” という説ってホント?
 虫や小動物は二次的に怒っているのだろうか?)
 
 
ただし、怒りを爆発させる時は、
そこに勇気も伴っているべきだと思う。
 
 
自分よりもはるかに強大な権力や
パワーを持っている存在の蹂躙に対する抵抗。
  
約束を反故にされ、理をもって話しても
相手が聞く耳を持たなかった時の訴え。
 
あるいは、真実や発見を世に問う怒り。
 
 
そういう怒りは、自分の生命や尊厳の維持や、
人間の発展のために必要であるのだろう。
 
 
ただ自分のマイナス感情をまき散らしたり、
うっぷんを晴らしたりする怒りは、何にもならない。
 
また、強大な力への対抗であったとしても、
安全圏から言っているだけなのだとしたら
あまり意味が無いようにも思う。
 
リスクを請け負って、さらに見たい未来のために怒る。
それが勇気の伴った怒りのように思う。
 
 
そういう意味において、
「正当な怒り」というのは、1割にも満たないのだろうから、
ほとんどの怒りはスルーしていいんだろうね。
 
正当じゃない怒りに触れても、
気分が悪くなるか、
同じような「安全圏からの怒り」が感染するだけだろうから。
 
 
さてさて。
 
どんな時でも、自分が怒りをぶつけられるのは
気持ちのいいものじゃない。
 
また、怒りのエネルギーを近くにいるのも
あまりうれしいことはないだろう。
 
 
そして、
 
「勇気が伴っていない怒り」
 
「理を訴えているのではない怒り」
 
は、怒っている本人が相手を吟味したうえでの
うっぷん腫らしでしかないので、スルーしていい。
 
 
「そこに勇気はあるのか?」
「そこに理はあるのか?」
 
自分の周りで怒っている人がいたら、
そこだけ一度考えて、答えがNOであるのなら、
 
「あー、なんかペンギンがピチピチ暴れてるわー」
 
くらいに捉えると、自分が平和でいられると思うよ。
 
 
これは、おじさんや老人に限らないけどな。
 
 
ではでは。
 

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