先日、以前に勤めていた会社の同期会があった。
学校を出て初めて入社した会社の同期会なので、
もう数十年ぶりに会う人ばかりだ。
今も同じ会社に勤め続けている人。
別の会社に転職をした人。
そして独立を果たした人。
そこには様々な人生航路があったけれど、
「同期」として会った時には、
それぞれの歩みに敬意を持ちながら話すことができた。
これが三十代とかだと、
「誰が一番出世しているんだろう?」とか
「俺のドヤ感をみせつけてやりたい」みたいな
気持ちがある、かも。
でも、そこはもうかなり薄れて
新入社員当時の「仲間」「同志」として接する。
ワタシなんかは、集まった人の中で
最も異色なカオスルートを巡っちゃった人だと思うんだけれど
それでもみんな、キモがらずに話してくれた。
「いい奴か?だよ。最後は」
会がそろそろ終わろうとしている時、
同期たちがジョッキを傾けながら盛り上がる姿を眺めながら
彼は言った。
彼も会社から離れ奮闘し、
今ではある地域では「名士」とまで称えられるほどに
なった男だ。
「そして、ここにいる奴らは、みんないい奴だ」
そうつぶやく彼に、
私は「ああ、そうだな」と深く、うなづいた。
黄昏の年齢になってくると、
「どれだけ稼いでいるか?」
「出世コースに乗っているか?」
ということよりも、大きな意味を持つことがある。
それが、
「また会いたい人か?」
「ずっと付き合っていきたい人か?」
ということ。
我々は、人生100年時代を
生きると言われている。
定年退職をしたとしても、
まだ4割は人生が残っているわけだ。
赤ちゃんのころとか、
もう最晩年になるころになったら、
自分の思うようには動けないかもしれない。
でも「可処分人生」という意味でも、
最も少なく見積もっても、十数年、
あるいは二十年ほどあるだろう。
そんな時代を生きている我々にとって、
仮に数百万円年収が高かろうとも、
地位が会社内で素晴らしかろうとも、
それは大きな意味を持たない。
なぜなら、それは定年になったら
消失してしまうのだから。
だから、それよりも、
「あなたなら、一緒に過ごしたい」
「能力が多少劣っていたとしても、
信頼できるあなたと何かやりたい」
と思われていることの方が重要なんじゃないかな?と思う。
そして、集まった同期の面々と話した時、
入社当時はそこまで感じ入らなかったけれど、
みんながみんな
「いい奴」
なのだ。
真面目な奴。
とぼけた奴。
テキトーな奴。
寡黙な奴。
性格は様々だけれど、
全員が変わらず「いい奴」だった。
もちろん、日常の中で
ダークサイドに堕ちる時もあるかもしれないし、
同期会という特殊な時間だったから、というのも
あるかもしれない。
でも、それを差し引いても
「いい奴ら」
だなぁ、と心底感じた。
そして、そんな人たちを採用している古巣は、
実は、本当にすごい会社だったのだなぁ、とも。
さてさて。
ワタシなんかは特に、
その場の損得に目を奪われてしまいがちな人だ。
でも、長期で考えた時には
「人を裏切らない」
「相手のことを思いやれる」
という「いい奴」というのが、本当の財産なのだろう。
社会的な成功に意味はない、とは言わない。
ただ、
「どれだけ、いい奴らがまわりにいるか?」
ということが、最高の財産なのだと思う。
走り切ったあとに誰もいないゴールテープを切るより、
まわりにたくさんの応援者がいる方が、
人生の充実度は高い。
1着でゴールするよりも。たぶん。
そんな風に思えた同期会でした。
みんな、ありがとう。
ではでは。