最近、自分の知的探求心を満たすために
「算命学」という、歴史ある占いを学んでいる。
まだまだヒヨッコなので、
算命学についてのウンヌンを言うつもりはないが、
あらためて
「世界はやさしく、美しい」
と思うようになってきている。
そして、
「多くの不幸は、
自分自身の ” ないものねだり ” と
” あるものあなどり ” で作られている」
のだと。
例えば、とある生年月日に生まれた人は
「欲が少ない傾向」と出てくる。
では、欲が少ないのは
「よい」ことなのか?「わるい」ことなのか?
どちらが絶対的に正しいという答えはない。
また、「総エネルギー値が高い傾向」というように
鑑定できる人もいる。
しかし、エネルギーが高い人は
なんでも全部自分でやってしまいがちなので
人に頼ることが苦手になりやすいらしい。
逆にエネルギーの低めの人は、
本能的に自分のエネルギー総量を知っているので、
人に頼ることをいとわず、結果として成功しやすい。
どちらがいいのか?
それも答えはないだろう。
他にも
「物質的な世界で満足を得る人」
「精神的な世界で満足を得る人」
「行動範囲が狭いが専門的に生きられる人」
「行動範囲が広く、様々な人のことが分かる人」
「持っている星が多様な人」
「持っている星に一貫性のある人」
「若い頃から輝きやすい人」
「老いてますます盛んな人」
など、さまざまな傾向が出てくる。
「よい」のか?
「わるい」のか?
それは見方によって千変万化する。
そして、そのすべてを一度の人生で味わえる人はいない。
波乱万丈な生き方をしている人は、
ある時ふと平凡な人生に憧れるだろう。
平凡な人生を歩む人にとって、
浮き沈みの激しい人生がまぶしく見える時もあるだろう。
全員に等しく運命のカードは配られ、
あとは後天的に、どのようにカードを使うのかが任される。
カードが人より少ない人もいなければ、
カードが人より多い人もいない。
ただ、配られるカードが違っていたり、
重複していたり、順番が違っていたりして、
そこに付随する何かが、出たり出なかったりするだけだ。
例えるならば、
同じ食材は用意されているのに
料理人が違えば、まったく違った味になるかのように。
同じ機体であるのに、
パイロットが違えば、まったく違った性能になるかのように。
同じカードを持っているのに、
プレイヤーが違えば、まったく違った展開になるかのように。
そんな魂のさらに奥にある「真魂」みたいなものが
環境とフォーカスを取り混ぜながら
人生という作品を創り上げてゆく。
そんな片鱗を垣間見るかのように
今は学んでいる。
さてさて。
正直に言えば、算命学を学んでいる中で
「あー、いいなぁ。この星を持っている人」
「えー!この人、生涯の並び順、ズルくね?」
みたいに思うことはある。
ただそれは私自身の「ないものねだり」であり、
私自身が持っている「あるものあなどり」であることは間違いない。
誰か他の人から見たら、
私の持っている「カード」が、
めっちゃ羨ましい、っていうこともあるのかもしれないのだから。
「手元に配られたカードで、
この人生を自分にとって最高のものにする」
「そして、その ” 最高 ” すらも、
自分自身で決めることができる」
ということに改めて気づけただけでも、
本当に学び始めて良かったなー、と思う今日このごろなのでした。
まぁ、これから学びを深めていくので
解釈が間違っている所もあるかもしれないけれど、
末永く見守ってもらえればと。
ではでは。