先日、尊敬している友人と雑談をしていた時、
「なるほどな」とストンと納得したことがあった。
その友人は、もう何年もかけて
巨大すぎるプロジェクトを手がけている。
そのプロジェクト達成のために、
巨額の私財をなげうっているし、
人的な労力も計り知れない。
そして月日が経ち、
現在はそのプロジェクト達成の成否は、
神のみぞ知る、という段階にまで来た。
そこで彼が言ったのは、
「どっちでもいいな」
という言葉だった。
プロジェクトが成功しても、
仮にうまく行かなくても、どっちでもいい。
これが微妙なニュアンスなのだけれど、
「どうでもいい」
ではないのだ。
放り出している訳ではない。
諦めたわけでもない。
ましてや責任回避するつもりもない。
今までのプロセスの中で、
とんでもなく執着するステージもあり、
諦めかけた時もあった。
そして、それらの欲求と感情を丸ごと、
ミトコンドリアが沸騰するくらい味わい尽くして
達した境地。
それが、
「どっちでもいい」
なのだろう。
その証拠に、
その「どっちでもいい」と放つ表情には、
一点の曇りも迷いもなかった。
そう。
よく、
「執着を手離す」
といったことを話す人もいる。
それは素敵なことでもあるのだが、
手離した瞬間に、
「手放すことに執着する」
のもおかしな話だし、
「執着していたことから逃げる」
「執着していたことと敵対する」
というのも、ちょっと違うだろう。
「さよなら」と口では言っておきながら、
チラッ チラッと片目では見続ける、なんてことなら
別に手離さなくたっていい。
諦めるのでも、放り投げるのでも、
逆方向に歩むのでも、フリをするのでもなく、
「どっちでもいい」
と、腹から(←重要)
思えた瞬間から、きっと天は味方する。
そんな風に思うんだよね。
さてさて。
私が18年くらいやっている氣功でも、
「相手を投げよう!」
と思って仕掛けても、相手は倒れない。
かと言って、まったく無関心になっても技は効かず、
頭でフリをしているのが最もバレる。
「相手が倒れても倒れなくても、
どっちでもいい」
くらいの気持ちで、
「技はかけるけれど、結果は任せる」
と、そこに自然の「流れ」が生まれるのかもしれないね。
すべてにおいて、この(どうでもいい、とは違う)
「どっちでもいい」
の境地に達した時、それを悟りというのかもしれないね。
仕掛けるけれど、どっちでもいい。
大切なことであればあるほど、
そんな心持ちで挑めるといいのかもしれないね。
ではでは。