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ギブという迷惑行為。

「価値あるものを相手にあげる」
 
いわゆるギブは素晴らしいことと言われる。
それを信じてギブする人もいる。
 
 
でも、そのギブは気をつけないと、
迷惑行為にもなる。
 
 
 
もし、
 
「私はギブしまくっているのに
 なんだか報われないなぁ」
 
と思ってしまうことがあるのだったら、
少し立ち止まってみてもいいかもしれない。
 
 
そのギブは、
ギブという名の私利私欲なのでは?
 
  
と。
 
 
  
ギブには、3つの約束がある。それは、
 
・相手が欲しいと思っていること。
・許可をもらっていること。
・互いの心が開くこと。
 
 
 
どんなに価値があるものでも、
「私から見て」の価値と
「相手から見て」のそれには
雲泥の差がある。
 
 
どんな物でも、
どんなサービスでも、
どんな希少なものでも。
 
ギブする側がどんなに心を込めて、
どんなに労力をかけて、
どんなにお金や時間をかけて、
手に入れたものや技術でも、
 
価値を決めるのは、
いつ、いかなる時でも、相手。
 
 
それを忘れ、無視して、
相手が欲しいと思っていないものを
いくら捧げても、ギブにはならない。
 
 
 
また、
 
仮に相手も価値を認めていたとしても、
それを「今」「あなたから」欲しいかは
また別の話だ。
 
  
大きな花束より、
今は一杯の水が欲しい時もある。
 
どんな尊い愛であっても、
あなたの愛では満たされないこともある。
 
相手が欲しいものであっても、
相手からの「許可」がない限り、
やはりそれもギブにならない。
 
 
 
そして。
 
互いの心が交流し、
温かく開いて行かないのであれば、
それも違うものになり果てる。
 
 
相手が、
 
「重いなぁ」
「面倒だなぁ」
「断りづらいなぁ」
 
と心を閉ざすのなら、
それはギブではなく押し付けに。
 
 
本人が
 
「厳しいなぁ」
「多少無理をしてでも」
「なんだよ、せっかくあげたのに」
 
と、心が苦しくなるのなら、
それは本人の下心や期待の空振りか、
相手からの意図的な搾取だ。
 
 
 
さて。
 
 
「ギブすると、幸せになる」
 
それは、なぜなのか?
 
 
「価値のあるものを提供すれば
 どこかで何かが返ってくるから」
 
では、ない。
 
 
 
相手が本当に欲しいものを真剣に考え、
 
それを適切な時と場所と場面で提示し、
 
相手と自分の心の関係を開く。
 
 
 
そんな配慮ができる心が育つから、
結果として幸せになる。
 
 
ギブしたから、ではなく、
人を大切に思う心のあり方を手に入れるから、
だから幸せになる。
 
 
それが真実なのかと思う。
 
超絶、自戒を込めて。
 
ではでは。
 

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