あなたも私も、日々誰かとコミュニケーションを取っている。
とりとめもないやり取りかもしれないし、
真剣な話になる時もあるだろう。
その中で、
たぶん、コミュニケーションの意味というか、
定義が違うだけで、
そのコミュニケーションの質がまるで変ってくるように思う。
つまり、コミュニケーションのゴールを
どこに設定しているか?という話だ。
もちろん、その時々によってゴールは違っていいし、
そもそもゴールなんてない時もあるように思う。
ただ、その人がなんとなく捉えている
「コミュニケーションの理想のゴール」
が、その人のコミュニケーションを決め、
ひいては人間関係や、その人の人格を決めるように思う。
たとえば、
「コミュニケーションとは、
自分の意見を通すこと」
「理想のゴールは、
相手を論破し、納得させ、
自分の思うとおりに動かすこと」
という設定をしている人もいる。
と、いうか、気をつけないと
ほとんど無意識のうちに
上記のような設定になっている人が多い。
そこまでいかなくても、
「自分がしたい話をする」
が、イコールコミュニケーションだと思っている人もいる。
その場合、人間関係は極めて難しくなるように思う。
また、
「コミュニケーションとは、
相手との合意である」
「理想のゴールは
相手も自分もWin-Winになること」
という設定をしている人もいるだろう。
それは、商取引などにおいては有効かもしれないが、
人としては虚しく、寂しい。
人間関係は損得勘定だけではない。
その人の通常モードの「コミュニケーション」設定が
「Win-Win」だと、損得勘定に長けた人たちが
集まってくることだろう。
そして、
「コミュニケーションとは、
相手との調和である」
「理想のゴールは
相手と相互に共感し、理解し合うことだ」
という風に設定している人もいるだろう。
それは素晴らしいことだけれど、
それが最上と思っているのは、個人的には違うように思う。
相手と認め合うことは大切だし、
心と心が触れ合うことは人間関係の喜びだ。
ただ、それ「だけ」になってしまうと、
いつのまにか馴れ合いになったり、
少しのズレも許せないセコい人間になったりもする。
傷つきたくないから、
安全圏で相手を分かったフリをする。
もちろん、そうならない場合もたくさんあるけれど、
もっと違うコミュニケーションもあっていいと思う。
そして。
通常モードの「設定」が、
「コミュニケーションとは、
ビジョンの共有である」
「理想のゴールは
I’m O.K , You’re O.K の精神で
互いの魂に触れることだ」
となっている人もいる。
そういう人は視座が高く、人格も練られている。
もちろん、いつもいつもそのモードだと疲れるけれど、
「理想としては、こうだよな」
と、心のどこかで知っている人は、
ふとしたタイミングで、深いコミュニケーションに発展する。
少なくとも
「コミュニケーションは意見を通すこと」
という設定しか知らない人とは、雲泥の差なのは
間違いないだろう。
さてさて。
ここに書いたもの以外でも、
コミュニケーションの「設定」はあるだろう。
それこそ理想としては、
さまざまなシチュエーションに応じて、
そしてその人その人に応じて
「設定」が自由自在になるのがいいだろう。
その上で、
コミュニケーションを取る意味、意義、理想、ゴールが
「なんとなく、ベストはこうだろ?」
と思っていることが、そのまま人生そのものに
反映されるんじゃないかな?なんて思う次第。
その人の中の「普通」「常識」が、その人を決める。
そして、その「設定」が狭い人同士はトラブルになりやすいし、
広い人同士は認め合える。
そして、類は友を呼び、
気持ちのいい毎日を過ごすか、
気持ちの悪い毎日を繰り返すことになる。
少なくとも、
「理想としては、こうだろ?」
という絵が大きい人が
やっぱり気持ちのいい
コミュニケーションを取れるんだろうなぁ、と。
学んでいきたいものですわ。
ではでは。