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お金は「俗」の壺に眠る。

お金って「聖」か「俗」かで言えば
「俗」のエネルギーだ。
 
 
人の社会にある。
 
誰もが目にし、手にしている。
 
欲が霧散していくのでなく、欲をかりたてる。
 
 
そんな特徴を挙げるまでもなく、
お金は「俗」であるだろう?
 
いや、聖俗どっちがいいというワケじゃなく、
「お金は俗なエネルギー」であることは
間違いないだろう。
 
 
 
「お金も、ひとつのエネルギーですわ」
 
と美しく、さも高尚に言い放つ人もいるし、
エネルギーであることは間違いじゃない。
 
でも、「俗なエネルギー」であることを
糊塗して隠そうとするのは、気持ち悪いやろ、と思う。
 
だって、それ、ウソだもん。
人の俗な側面が生み出した発明だもの。
 
 
 
「聖」のままでお金を得られている人は、
歴史か、権力システムか、
俗世間で戦っている人のどれかに庇護されている。
 
 
なので、そういった何ものかがない人は
「俗の壺」に手を突っ込まない限り、
お金を手に入れることは難しいと思う。
 
 
没落する伝統芸能や、元貴族といった存在は、
「聖」である自分にこだわり、
「俗の壺」から、あまりに離れてしまったがゆえの
悲劇なのかもしれない。
 
歴史をたどれば、きっと「俗」があるはずなのにね。
 
 
 
まぁ、どこまでズブズブと手を突っ込むかは
本人の意思しだい。
 
あまりに深く突っ込みすぎると、
壺に体ごと入り込んで、出られなくなるから
お勧めはしないけど。
 
 
 
「私の作品は、どこまでも俗に
 まみれさせたくない!」
 
というのであれば、自分の作品を
誰にも目につかないところに
三種の神器のようにおさめておくしかないと思う。
 
 
「自分は、清廉な活動でお金を得ています」
 
という人は、たぶん歴史か権力システムか、
自分以外で俗にまみれている人から目を背けているのだろう。
 
 
 
さてさて。
 
おそらく、誰だって、
清い存在でいたいだろう。
 
そして、富める存在でもいたいだろう。
 
 
清貧でも、濁富でもなく
「清富」でありたいと願うだろう。
 
 
そのうえで、
 
生まれながらに何かに守られていたり、
何かに守られる場所を選んでいない限りは、
 
お金を得るためには、一度は
「俗」に手を突っ込む必要があるんじゃないかな?
なんて思う。
 
 
 
極論すれば、
 
自分の価値を、「俗の壺」に投げ入れた対価が
もしかしたらお金の招待なのかもね。
 
 
でも、だからこそ、
 
自分の価値や聖性を磨いていかないと、
なにも投げ入れるものがなくなって
老いてしまいかねない。
 
 
どっちも大切にしたいね。
 
天を仰ぎ見る自分の「聖」と。
 
それを「俗の壺」に投げ入れる自分とを。
 
 
ではでは。
 
 

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