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進歩の成長痛。

「男は女性におごるべき」って
よく議論されたりするやん?
 
それには支持派・反対派どっちにも
言い分があるし、どちらの意見も分かる。
 
 
その上で、
 
もう一歩俯瞰してみると、
これが「問題」になって議論されるって、
そのこと自体が
 
「女性の社会進出」
 
の、大きな証拠のように思うんだよね。
 
 
昭和モーレツ時代には
そんなこと議論すらされなかった。
 
なぜなら、女性は専業主婦の方がマジョリティで
お金が介在する仕事はしておらず、
男性がお金を稼ぐことが当たり前だったから。
 
 
それが、女性も社会で活躍するようになり、
その結果、当然お金も手に入るようになった。
 
そうなったからこそ、
「どちらがお金を支払うのか?」
ということが「問題」として扱われるように
なったわけだ。
 
 
 
で、
こういうことって他にもあってさ。
 
 
たとえば、LGBTのような話も、
以前はほとんど話題にすら上らなかった。
 
極端なマイノリティとして
社会の中で目立たないように
されていたのではないか?
 
と、当時のそのような方々のご苦労が偲ばれる。
 
 
「歩きスマホ」なんかも、
お弁当箱のような
バカでかい携帯電話をひっさげてる人が
チラホラいるうちは、問題視すらされない。
 
 
エネルギー問題なんかも、
移民問題なんかもそうだけれど、
 
今までマイノリティだったものが
力を持ち始めた結果の副産物で
「問題」が生まれてくる。
 
 
そして。
 
 
その流れは、
世界がより良い方向に進んでいるからこそ、
だと信じたい。
 
 
すべての「問題」がそうではないだろうけれど、
多くの問題が、この
 
「力を持ち始めたからこその副次作用」
 
であったりもする。
 
 
宗教とかもそうだろうし、
サイバーテロとかもそうなっている。
 
 
 
、、、なんか、おごるおごられる問題から
話が大きくなりすぎてしまったが、
「問題」っていうと、
 
「解決しなきゃ!」とか、
「こちらが正しい!」とか、
「私はこっちを支持する」って、
決着をつけなきゃいけないと脊髄反射するけれど、
 
それとは別の見方として、
 
「社会がマシになってきている成長痛」
 
なのかもなー、と、ふと思った次第。
 
 
 
さてさて。
 
 
世界がどの方向に向かうのが、
「正しい」のかは、私になんてわからない。
 
ただ、「問題」が起こっているということ自体が、
実のところ、今までのマイノリティに光が当たり、
世界に次の可能性を提示していることでもある。
 
少なくとも、
そういう側面もなくはない。
 
 
だから、
 
「問題がまったくないようにしよう」
 
という「ことなかれ主義」は、
未来の可能性を潰しているし、
 
「あの頃はよかった」
 
という懐古主義は、
見えている問題をなくすけれど
以前の問題を墓から掘り起こしてしまうだろう。
 
それが社会であっても。
もちろん、一人一人の個人の毎日においても。
 
 
 
人は進んでいる。
 
 
 
そんな風に思うのでありんす。
 
 
 
まぁ、ワタシが男女問わずにおごる時は、
マナーでもやさしさでもなく、
 
「ケチの烙印を押されたくない」
 
という完全に自分都合の
理由なんだけどな。笑。
 
 
ではでは。
 
 

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