いやぁ、しかしまぁ、なんですなー。
世の中には、いろいろとチャレンジがあって、
その中に栄光と挫折とか混ざっておりますもので。
私が目標設定セミナーをやっているから、
という理由もあるんだろうけれど、
おかげさまで色んな人から
「出来ました!」
「目標達成しました!」
という報告や、
「やっぱり、できません。。。」
「私なんて、どうせ。。。」
というグチや相談をもらったりする。
つい先日も、コツコツと検証を重ねて
プロの株トレーダーとして自信を深めた人から
喜びの報告がきたり、
そうかと思うと、すっかりしょげてしまっている人から
悩み相談がきたりもする。
本当に、みんな生きているだけで
大変だよなぁ、なんて思う。
で、
その上で、
「出来ない。。。」
「うまくいかない。。。」
と相談をしてくる人には、2タイプいるなぁ、
なんて感じた今日この頃。
その「できない」2タイプとは、
ひとつは「ハイジ型できない」で、
もうひとつが「クララ型できない」。
このたとえ自体が、かなり年齢制限があるかもしれないし、
私自身が、たとええに使っている作品をうろ覚えなんだけれど、
まぁ、週末だからいいよね?(笑)
そう、お察しの通り、今回のたとえは
『アルプスの少女、ハイジ』
から来ているもので、その登場人物をお借りしている感じだ。
ハイジもクララも、物語の中で
大きな挫折やチャレンジを経験している。
ハイジは、愛するアルムの森から都会へと連れ去られ、
執事であるロッテンマイヤーさんから
都会での生き方を強要される(たしかそんな感じ)。
クララは長年乗っていた車椅子から立ちあがり、
ハイジの罵倒を受けながら、歩くことを強要される(よね?)。
二人とも、途中「できない」となるのだけれど、
この二人の「できない」には、大きな違いがあると思う。
ハイジの「できない」は、
まず実際に都会には来ている。
そして、実践を頑張って繰り返すものの、
やっぱり自分の生き方や魂の叫びとは違うと知り、
「できない!」
と言って、夢遊病に悩まされながら
アルムの森へと帰ってゆくわけだ。
一方で、
クララの「できない」は、
「できないと思っているにすぎない」
だけなのだ。
車椅子から立とうともしない。
怖い、不安だ。
実践をしないで、自分で「できない」と決めつけているわけで
実際には歩く能力はあるのだから、もったいない。
この違いは、大きいと思う。
だから、実際にやってみてできなかったハイジが
やってもみないで「できない」と決めつけているクララを
「クララのバカ!いくじなし!甘えん坊!
実写デビルマン! キャシャーン! えびボクサー!
たけしの挑戦状! スペランカー! トランスフォーマーコンボイの謎!」
みたいに罵倒するのも、仕方ないと思う。
私たちが実際にするチャレンジでも、
この2つのタイプの「できない」が混在するよね?
実際にやってみているんだけれど、
プログラミングができない、とか、
料理を美味しく作れない、とかは
「やっているんだけれど、うまくできない」
ということ。
その場合は、
「経験をつむ」
か、あるいは
「自分には向いていない事を知る」
という選択肢ができるし、良いんじゃないかな?
と思う。
そうではなくて、
スキーで直滑降できない、とか
異性に声をかけられない、というのは、
「出来ない」のではなく、正確には
「出来るだろうけれど、怖い」
「はじめはうまく出来なさそうで、カッコ悪いのがイヤ」
という事なんじゃないかな?なんて思う。
この場合は、一歩を踏み出さない限りは
選択肢も広がらない。
しかも、やってみたら、思いのほか
トントン拍子に進むことすらある。
やりたいこと、対象への好奇心と
自分の現状維持のプライドを天秤にかけている状態なので、
「それだったら、やっちゃえば?」
みたいなことも多いと思うんだけれど、
いかがでしょ?
さてさて。
人は死ぬ前に後悔するのは
「やらなかったこと」
らしい。
やっちゃったことに関しては
あとで修正できることも多い。
やってみて、
「これは私には向いていないんだ」
と知ることで、自分のやりたいことが
より明確になることもある。
あなたが今、「できない」と思っているのは
ハイジ型?それともクララ型?
もしクララ型なら、
「現状」という車椅子から
思いきって立ちあがって、一歩を踏み出してみるのも
いいのかもしれないね。
もしかしたら、世界が急激に広がるかもしれない。
罵倒が必要だったら、罵倒してあげます(笑)
ではでは。