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人ひとり、何も変えられない。

たとえば、ビル・ゲイツがいなければ
windowsはなかっただろう。
 
しかし、それに近しいものは
世に産まれていたかもしれない。
それは否定できない。
 
 
ザッカーバーグがいなければ、
Facebookは存在しなかっただろう。
 
しかし、似て非なるものは
他の誰かが広め、
我々の日常に寄り添わせたことだろう。
 
 
ナポレオンがいなければ
世界地図は今と違っていたかもしれない。
 
しかし、その時流に乗った他の誰かが
新しい地図を描いた可能性は否定できない。
 
 
ヒトラーは国民の選挙で選ばれた。
その時流や趨勢があったから。
 
 
ダイエーは没落し、
その代わりにイオンが隆盛した。
そこには車社会という時流があったから。
 
 
映画は、映画館で見るしかなかったのが、
ビデオレンタルができ、DVDとなり、
今ではネットで見るのも普通だ。
 
 
 
そう。時代を創るのは、一人の人間ではない。
 
 
 
表に現れることのない無数の人々の思念と
それを支える技術や情勢が相まって、
「英雄」は選ばれ、「咎人」が決められてゆく。
 
 
まず時流があり、技術があり、
そこにアイディアと実行力を持つ人が
「役割として」世に出る。
 
時流と切り離して英雄は存在し得ない。
 
 
今の我々がやっている仕事も、
時流と技術にまったく頼らずにできるものは
存在しないと言えるだろう。
 
支持する者、認識する者がいなければ、
どんなものも「存在」はできないのだから。
 
 
 
 
時代の寵児となるか、終わるか。
 
 
それは、大きな潮流の中で、役割として決まる。
 
 
人ひとりでは、何もできないのだ。
 
 
 
 
 
しかし。
 
 
だからこそ。
 
 
自分が楽しいか。
自分の心が何を求めているか。
 
 
それこそが大切なのだと思う。
 
 
 
誰ひとり、何者にもなれない。
 
 
仮になったとしても、
それは時代が気まぐれに微笑んだだけで
他者より優れている証明にはならない。
 
 
自分が何者かになった、という心を
傲慢というのかもしれない。
 
 
 
だから、
自分の心が求めていることをする。
 
 
そのプロセスでは、
誰かを傷つけてしまうこともあるだろう。
 
 
その時は、自らを率先して罰し、
反省することも必要だろう。
 
 
相手は間違わない。
間違うのは、常に自分なのだから。
 
少なくとも、私はそう思う。
そう思おうとしている。
 
 
 
自分は何者にもなれない。
 
何者かになれた人も、
それは本人の努力や才能だけで
勝ち得た世界ではない。
 
 
それを充分理解して、
そこから始める。
 
 
絶望ではなく、達観でもなく、
希望をもって今を生きる。
 
 
それが今まで自分を作ってきてくれた環境や
出会ってきてくれた人への、
せめてもの恩返しだから。
 
 
 
 
在りようによって現れたもの。
 
現在に、自分の魂が、どう吼えるのか?
 
 
 
去ってしまった過ちたるもの。
 
過去に、どう報いるのか?
 
 
 
未だ来ぬもの。
 
未来に、恐怖や攻撃ではなく、
やさしい笑顔を向けるのか?
 
 
と、もがくしかない。
 
 
 
そんな風に思うのでありんす。
 
ではでは。
 
 
 
 

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