新年がはじまり、
のんびりムードにもちょっと飽きてきたころに、
親友から1通のメールが届いた。
メールの主は、
年の初めに運勢を見てもらうのが習慣で、
自分のものと一緒に、私の運勢も見てくれるという
とても親切な人だ。
昨年も年初に見てもらったんだけれど、
バッチリ当てはまっていたので、
「これは、ないがしろにできないな」
と、今回のメールも、ありがたく開封した。
私の今年の運勢は上々で、
景気の良い事が色々と書いてあったんだけれど、
その中にひとつ気になるメッセージが。
気になるメッセージ、それは、
「すべての目覚めは勇気から」
というもの。
まぁ、たしかに「勇気」がないと、
なにも始まらないんだから
今年は特に意識していこう!と思ったんだけれど、
「待てよ。じゃあ、“勇気”って、一体なんだ?」
と、いつもの「定義付けマニア」の血が騒いだわけ(笑)
年始早々からメンドクサイ奴で恐縮だけど、
あなたにとって「勇気」って、
どんな言葉で定義できるだろう?
勇気とは?
さて。
個人的には、定義付けをするからには
「巨悪に立ち向かう大きな勇気から、
お年寄りに席をゆずるような小さな勇気までを
ひと言で定義付けしたいなー」
と思いながら
あーでもない、こーでもないと考えてみたんだよね。
そこで、現時点で私の思う「勇気」は、
こんな言葉になった。
「勇気」とは、
【 「したい」よりも、「べき」を優先させる行為 】
である。
ちょっと説明をすると、
人間は、いろんな感情や欲望を持っている。
と同時に、社会性や理想も胸の奥にある。
勇気っていうのは、自分の中にある
「したい」という感情や欲望よりも、
「べき」という社会性や理想を優先させる
「行為」だと思うんだけれど、どうだろう?
なにかを実行に移す時、
必ずそこには感情や欲望が発生している。
その、個人的な感情や欲望よりも、
「本当は、こうであった方がいいんじゃないか?」
という理想に目を向けて実行に移す時に
そこには「勇気」が必要な気がする。
巨悪に立ち向かう時には、
ボコボコにされる恐怖がある。
でも、自分の内側から
「悪を倒せ」と呼ぶ声が聞こえる。
だから、怖いけれど立ち向かう。
お年寄りに席をゆずる時には、
なんか照れ臭い、恥ずかしい感覚がある。
でも、
「席をゆずった方が良いよね」という社会性が
あなたを席から立たせる。
好きな異性に告白する時には、
今の関係が壊れる恐怖がある。
でも、未来のより良い二人の関係を信じて
自分の理想に向けて一歩を踏み出す。
これらが「勇気」なんじゃないかな?
なんて思う次第。
もちろん、
「ぶん殴りたいけれど、理性で抑える」
「欲しいけれど、今は買わない」
といった、“静かな勇気”も
素敵な勇気なんじゃないかな?と思う。
さらに。
勇気とは、
【 「したい」よりも、「べき」を優先させる行為 】
なので、
勇気が試される時は、
「したい」と「べき」は両方とも必須の要素だ。
「したい」ことを「したい」まま行なう時に、
そこに勇気はない。
逃げたいから逃げる。
ぶん殴りたいからぶん殴る。
食べたいから食べる。
自分の都合だけで告白する。
これは、勇気ではなく、単なる動物的行動で、
強いて言えば「蛮勇」だろう。
感情や欲望だけで、衝動的に動くのは、
動物でもできる。
人間にしかできない「勇気ある行動」は、
理想や社会性とは、切っても切れない関係だろう。
また、
「べき」だけを切り取って、
そこに何の感情も動いていない時も、勇気はない。
お役所的に何かを決めるのも、
会社で決められたまま働くのも、
たとえ社会のためになるようなことをしても、
そこに、感情がないのであったら、
それはまた「勇気」ではないだろう。
単なる
「規則ですから」
的な、愛や欲望、葛藤のない行為で、
今度はマシーンのような、冷めたものになる。
「したい」という感情や欲望があり、
それでも「べき」という社会性や理想を目指す時、
そこに「勇気」が現れる。
そんな感じがするんだよね。
人間以外の動物には(おそらく)できない。
そして、機械にも(おそらく)感じられない
精神的高揚感。
せっかく人間に生まれたんだから、
いろんな「勇気」を体験してみるのも、いいかもしれないね。
さて、
私は今年、どんな「べき」を胸に抱き、
どんな「したい」よりも優先させて行動するんだろう?
そして、あなたは?
あらためて、
今年もどうぞよろしくお願いします。
ではでは。