いつものように、あくまで私見だけれど。
「コミュニケーションって、
一体どういうことなんでしょう?」
と問われたとしたら、
「互いの定規合わせ」
なんじゃないかな?と思う。
実は、みんな、一人ひとりが
世界にあるものを測る ” 定規 ” を持っている。
その目盛りは、一人ひとり全然違っていて、
極端な時は、扱っている単位すら違う。
たとえば「犬」について語る時も、
「かわいい」という ” 定規 ” を持つ人もあれば
「こわい」という ” 定規 ” を持つ人もいる。
「忠実」もあれば、
「媚びてる」もあれば、
「賢い」もあれば、
「愚か」もある。
国が変われば「美味しい」もあるだろう。
そして、「かわいい」であったとしても、
その ” 目盛り ” は、人によって違う。
小さいワンちゃんを、よりかわいいとする
目盛りを持つ人もいれば、
まったく逆の目盛りを持つ人もいる。
大きさだけでなく、毛の長さだったり
尻尾だったり、体毛の色だったり。。。
そんな ” 単位 ” と ” 目盛り ” をもつ” 定規 ” を、
一人ひとりがモノ、人、概念、事象ごとに持っている。
で。
コミュニケーションとは、そんな
「相手の ” 定規 ” を理解しようとし、
自分の ” 定規 ” を知ってもらう営み」
なんじゃないかな?と思う。
これが
「自分の ” 定規 ” こそが正しく
相手の ” 定規 ” は間違っている」
という押し付け合いになると、
コミュニケーションではなくなり、
ひいては争いの火種になるのだろう。
だから、
「もしかしたら、
今までとは違う ” 定規 ” があるのかも?」
「受け入れるかどうかは置いておいて、
自分とは違う ” 定規 ” を見てみよう」
「相手にどうやったら自分の ” 定規 ” を
伝えられるか工夫してみよう」
という、絶え間ない営みを続けることこそが
コミュニケーションそのものと
言っていいんじゃないかなー?と思う。
さらに。
では「コミュニティ」とは?となると、
「共通の ” 定規 ” を
持ち合わせている集い」
になるんじゃないかな?
一人ひとりは違うけれど、
その違いを尊重し合える集まり。
そして、個性はバラバラだけれど、
全員が、ほぼ共通で持っている
「世界を測る ” 定規 ” 」
が、少なくとも1本以上ある。
それがコミュニティの正体なんだと思う。
その「世界を測る ” 定規 ” 」は、
どのような形でも取られる。
「特定の趣味が好き」
「特定の人が好き」
「同じ学びをしている」
「その場で語れる言葉がある」
「同じような未来を見ている」
「なにかしらを阻止しようとしている」
などなど。
なので、コミュニティが強化されるのは、
・より強く
・より多く
・より他では手に入らない
” 定規 ” があると、絆と結束は深まるんだろうね。
さてさて。
コミュニケーションは
互いの ” 定規 ” を理解し合おうとする行為。
そしてコミュニティとは
同じ ” 定規 ” を持つ集い。
そして、魅力的な人物とは、
一貫性のある、強い ” 定規 ” を持ちながらも、
しなやかで、無尽蔵に手持ちの ” 定規 ” を増やしていける人。
どんな相手の、どんな ” 定規 ” でも、
少なくとも初手からは否定しないような人で
ありたいと思いまする。できてないけど。
ではでは。