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恋と愛の違い。

先日、仲の良い友達から
 
「イグさん、恋と愛って、どう違うと思う?」
 
と、突然メッセージがやってきた。
 
 
その人は、ワタクシの定義ものの「お題」を出してくれる
もはや常連みたいになっている仲間なのだが、
これは即答できた。
 
 
 
「ああ、恋は幻の姿への想いで、
 愛は真の姿への想いじゃね?」
 
 
 
別の言い方をするならば、
 
 
「恋は部分への好意、愛は全体への好意」
 
 
でもいいけどね。
 
 
 
そうそう。
 
 
恋っていうのはたぶん、
相手(あるいは対象)のポジティブな部分へ向かう。
 
たとえば、美しさとか、カッコ良さとか、
自分にとって都合のいいところとか、
あこがれられるところとかに
 
「すきすき☆」
 
ってなっているような状態のような気がする。
 
 
なので、どちらかというと「尊敬」に近く、
相手をすごいと思って「見上げ」て、そこに
引き絞られた矢を放つような精神状態の気がするんだよね。
 
(その前に、相手にズッキューンと
 ハートを射抜かれているのだろうけれど。笑)
 
 
 
たとえば、
 
「ハワイに恋して」
 
みたいのは、ハワイの良い部分を堪能しよう!
といった気持ちからだろうし、
 
「恋され女子」という風には言わないのは
別にアイドルのように見上げられたい
ワケじゃないからだろう。
 
 
 
で。
 
対して、愛というのは全体。
 
 
 
その相手・対象のいい部分も、さほどでもない部分も
まるごとひっくるめて受け入れている状態。
 
その状態で、なおかつエネルギー循環ができる、
というのが、「愛する」ということなんじゃないかな?
 
 
引き絞られた矢のようなエネルギーである「恋」とは違い、
水面に広がる波紋のようなエネルギーが「愛」の気がする。
(抽象的でスミマセン)
 
 
 
なので、
 
尊敬という「川上」にいるよりは
「愛」は対等な立ち位置の方が循環は流れやすいし、
あるいは多少「こいつアホやなー」と思う部分があっても
循環には支障がない。
 
 
 
「愛され女子」というのは
愛を注いでもらい、その愛を循環できる女子なのだろうし、
 
「YOUはSHOCK!愛を取り戻せ!」というのは、
断ち切られた循環の復興を目指している
ことなのだろう(か?)。
 
 
 
「恋」はあこがれから、自らの幻想で作った
「上流」へエネルギーを送ることなので、
いつか疲れてしまう。
 
恋している間は、エネルギーを集中して贈り続けるので、
視野は狭くなり、器も小さくなりやすい。
 
ただ、それが終わった時には、
自分がまたひとつ成長していることに気がつく。
 
 
 
「愛」は相手の本来の姿とのエネルギー循環なので
循環が大きくなったり小さくなったりはするけれど
ゼロになることはない。
 
愛している間も、それが我欲からくるものでなければ
視野も器も広がり続ける。
 
 
「恋は盲目」っていうけれど、
「愛は盲目」とは言わないからね。笑。
 
 
 
 
「私を、僕を、愛してっ!」
 
と、多くの人が思っているけれど、
愛は部分でなく全体への想いなので、
カッコつければつけるほど、
愛から遠のいてしまうという皮肉。
 
 
さらに、循環なので、
「クレクレ」でも、
さらには一方的な「ギブギブ」だけでも
やはりフローは起きないんだから、難しいよね。
 
 
本当に大きな大きな愛で生きている人は、
巨大なフローのただ中に、すでに在るので、
「ギブギブ」の人に見えるけれど、
実は循環の中にいるのだと思う。
 
 
 
 
 
さてさて。
 
 
 
こう書いたけれど、恋も大事だし、愛も大事。
どちらが、いかなる場合でも優れているということはない。
 
 
そして、
 
 
 
恋して、傷ついて、疲れて、また恋して。
 
愛して、その循環が枯渇して、また湧いて。
 
 
 
そんな絶えず変化することこそが
生きている証なのだから、
この世にいる限りは、楽しんでいきまっしょい。
 
 
 
ま、恋とか愛を言葉で表そうなんていう
ヤボなやつの話は、華麗にスルーした方がいいぜ。笑。
 
 
 
ではでは。
 

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