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「貢献してる!」というイタい自己催眠。

たまにふと、行動に迷うことがある。
そのふらつきの正体は?というと、
「この行動って、
ㅤ本当に相手のことを思ってのことなのかな?」
「それとも、私自身の利益や、
ㅤエゴ・承認欲求のためにやっているのかな?」
という迷い。
もちろん、自分のエゴや承認欲求を
「悪」と断ずるつもりもないし、
そんな善悪二項対立で行動を語らないでいい。
ただ、
相手の感謝は、本心からの感謝なのか?
それとも私のエゴからの行動に対する
「支払い」としての、かりそめの感謝なのか?
それは見極められる人でありたいとは思う。
だって、押しつけの「貢献」は
見ていて見苦しくダサいものだし、
あとあと、そのエゴは世界をせばめ、
己のクリアさを曇らせる気がするから。
どんなに巧みに
行動の意味に解釈を継ぎ足していったとしても、
そこに心や魂がなければ、単なる言葉遊びに堕すからだ。
では、その行動がエゴなのか、真の貢献なのかは
どう測ればいいんだろう?
個人的には、
それを自分だけで測ろうとすることこそ
エゴ以外の何物でもないと考える。
相手がいてこその行動のはずなのに
「これは貢献に違いない!」
と断言、断行することが、まさにエゴだ。
なので、エゴか貢献かは、
「相手が欲している意識」
によって決まるように思う。
行動自体に「エゴ」「貢献」があるのではなく、
相互のコミュニケーションと関係性の中で、
どちらなのかが決まるはずだ。
愛の言葉やキスが、
相手に「与えて」いるものになるのか、
「奪う」ことになるのかが、関係性で決まるように。
愛する人からのキスは、至上の幸せに。
心が融ってない人からのキスは、人生の汚点になるように。
そう、そうなる。
相手が渇望しているものを、そのまま提供すれば
それは貢献になるだろう。
相手が価値を理解していない状態では
提供するものがどれほど素晴らしいものであっても
それは押しつけの、ありがた迷惑になるだろう。
100年前の人に、スマホを無償で配っても
それは自己満足でしかないように。
だから。
もっとも必要なことは、
「自分が提供できるものを提供する」
ことではなく、
「相手が欲しているものを知る」
ことなのだろう。
相手を理解する。
でき得るならば、相手本人以上に。
理解できれば、自分が提供できるものがわかる。
そして、提供するものが分かったとしても、
それを自分のタイミングで提供するのは、
それもまだ違うようにも思う。
相手のタイミングで。
相手の欲しい量を。
そんな風にできれば、ベストだよね。
そして、さらに言えば。
相手が欲しかった「それ」を
こちらが提供したことすら気づかれなかったとしても
それで満足であるのならば、
それは貢献と言ってもいいのかもしれないね。
相手から感謝や尊敬、異性として魅力を感じてもらうなどの
メリットが得られないのであれば不満に思う。
そんなことなのならば、それは貢献ではなく、
エゴを満たす「支払い」を強要する取引、
ひいては押し売りなのかもしれない。
さてさて。
はじめに言っているように、
エゴや承認欲求を満たす行為が悪いとは思っていない。
何かをやったことに対する報酬を求めるのも全然アリだ。
さらに、エゴか貢献かなんて
白黒つかないことの方が多いし、
どちらもが、ないまぜになっているのが自然だ。
その上で、
「これは、あなたのためにー!」
「私のできることで、あなたを変えてあげるー!」
と言いつつ、相手から尊敬を勝ち取ろうとするのは、
貢献という催眠を自らにかけ、
報酬を乞食のように期待しているイタい姿なので、
できるかぎり控えられればと思っておりまする。
ま、難しいんだけれどね。
ではでは。

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