スポンサーリンク

染まらない、染めない。

今日は節分。
 
世間的にも個人的にも、
また新たな気持ちに立ち還れる日。
 
 
そんな中で思うのは、
 
「軸を保ちつつ、受け入れる」
 
ということの大切さと、難しさ。
 
 
 
敬意を持ちつつ、本音で話す。
 
自分でありつつ、世界に心を開く。
  
 
けっこう難しいところだと思うんだけれど、
それこそが大切だなぁ、なんて思う。
 
 
 
例えるならば、
「軸」って、自分の「家」みたいなもの。
 
 
家に引きこもって誰とも会わず
外界と一切接触を持たなくなったら、
自分の軸は保たれてコンフォートだろうけれど、
そこで「世界」は閉じ、終わる。
 
濁り、自分以外を認められなくなり、
そしていつか自分の軸も腐り果てる。
 
 
 
かといって、家を持たず、
その場その場で「間借り」しているのは、
自分の軸がないようにも思える。
 
根無し草のようにフワフワと生き、
はき違えた自由と、無責任と、被害者意識で、
人生の醍醐味を知らずに、こと切れる。
 
 
 
だから、自分の軸と、世界。
 
その両輪のバランスを取らないと、
「受け入れる」は、起こらないんだろうなぁ、
なんて思う。
 
 
 
他の人の意見を聴いて、
そのままやる時期も大切だろう。
 
ただ、ずっと他の誰かの意見のままでいたら、
それは受け入れているのではなく、染まることになる。
 
 
逆に、他の人に対して批判的になったり
誰かの行為に眉をひそめたり、
あるいは誰かにアドバイスしたり。それも大切。
 
ただ、その心の動きは、
自分の信じる軸へ、相手を「染めよう」という
心の動きでもある。
 
仮に、それを相手に伝えなかったとしても
反発・拒否の気持ちが心に芽生えたのであれば、
「染めよう・染めたい」という心のあらわれ。
 
それが別にいい、悪いではないけれど、
「自分の軸が正義」の風景となっているんだろうね。
 
 
 
なので。
 
 
たぶん、もっとも美しい心の形は、
 
「自分の軸を持ちつつ、すべてを受け入れている」
 
という状態なのだろう。
 
 
何にも染まっていないし、
何も染めようともしない。
 
 
そんな静かな水面のような状態が理想。
少なくとも今の私にとっては。
 
 
 
いや、
 
「そんなワケに行かない」
 
「迷ってしまう」
 
「そんなこと言われてもムカつく」
 
って、そりゃそうだぜ?
 
 
それでいいし、それがいい。
別に悟る必要なんてない。
 
自分の心が波打つからこそ
「自分」と「世界」を学ぶことになるし、
それが一生続くから、生きている意味もある。
 
 
ずっと心が波打たなかったら、それはそれで
 
「波打たない自分」
 
に固執している事にもなるだろうから。
 
 
 
ただ、その上で、
 
「ああ、理想はこうだったな」
 
と、たまに思い出すことも悪くはないかと思う。
 
 
理想がなければ、
どこに立ち戻るかもなくなっちゃうからね。
 
 
 
さてさて。
 
 
今は、物理的には家にいることも多いだろうけれど、
心の中まで鍵をかけてひきこもる必要はないでしょう?
 
 
自分の軸と、外に広がる世界。
 
 
折り合いをつけながら、
少しずつ「受け入れ」をしていきたいものですわ。
 
 
ではでは。
 

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク