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メンタルの強弱を決める、たった1つの要因。

世の中にはバケモンみたいに
メンタルつよつよの人もいる。
 
そうかと思うと、指先チョンで心の根っこから
折れてしまう人もいる。
 
これまたどっちが良い、という話ではなく、
バキバキ強メンタルの人は鈍感かもしれないし、
弱メンタルの人は繊細であるわけでもある。
 
 
その上で今回は、
 
「何かトラブルとか問題が起きた時に
 不屈の精神力を保っていられる」
 
という面においての強メンタルについて
お伝えしていこうと思う。
 
 
 
正直。
 
今までたくさんの人を見ている中で、
上記の側面におけるメンタルは、
たった1つの要因によって大きく左右されると思う。
もちろん異論は認めるが。
 
 
じゃあ、そのたった1つの要因とは何か?というと。
もう、意識のベクトルの話だ。
 
 
ここでいう強メンタルの人は、
 
「自分の生き方は、見られている」
 
という意識を持っていて、
それにいい意味での緊張と責任を負っている。
 
 
逆に(あくまで今回の話の中での)弱メンタルの人は、
 
「私は自分、もしくは誰かを見ている」
 
という意識を(無意識で)持っているように思う。
 
 
誰だって、トラブルが起きた時とか
関わりたくないような出来事の時には、
逃げたしたくもなるし、責任放棄したいと思ってしまう。
 
ただ、その時に
 
「自分の在り方は、見られている」
 
という意識を持っている人は、
内心はどうであれ、できるかぎり理想的な対処をしようとする。
 
だって、カッコ悪いからな。
 
 
逃げ出す手軽さと、カッコよさを天秤にかけて、
わずかでも「カッコよさ、生き様の美しさ」が勝った。
ということ。
 
なので、もともと精神力がバカ強いってワケでもなく、
「見てくれている」と思える対象が多い、ただそれだけとも言える。
 
しかもそれは、勘違いとか思い込みの場合が
とんでもなく大きいかもしれないのにも関わらずである。笑。
 
 
誰からも「見られていない」と感じる時、
人はその瞬間の我欲と感情に引っ張られ、
心の中の弱虫と手をつなぐ。
 
 
 
逆に、
 
自分だけに意識が向いている時は、
脅威への抵抗力は、とんでもなく下がる。
 
もしくは、
 
「誰それさんがいるじゃない」
「誰それさんとは私は違うし…」
 
となっていても「見られている」のではなく
「見ている」ので、力は湧き上がってきにくい。
 
 
 
あ、もちろん「見られている」という意識も、
 
「うわぁぁぁ、、、、私が見られている、、、、!!!!
 失敗したら、、、どうしよう、、、、」
 
とガクブルしている状態は、結局は自分を見ているので
力が出るわけもない。
 
 
「生き方を見られている」
 
「だとしたら、ここで求められている
 私の在りようは、こうなのだろう」
 
という(勘違いかもしれない)意識こそが、
立ちふさがる困難という名の扉を開け放つ鍵になる。
 
 
 
そして。
 
この「見られている」意識は、
なにも特定の人物だけに限らない。
 
もちろん、顔が思い浮かぶ人たちの
支えがあって動くことが多い。
 
 
でも、
 
「どこかで人が見ている」であっても、
 
「ご先祖様が見ている」であっても、
 
「天が見ている」であっても、
 
「偉大なる何かが見ている」であっても、
 
自分の力が湧き上がるのであれば、それでいいと思う。
 
 
 
さてさて。
 
 
今回の話は、トラブル突破だけの話じゃないかもしれない。
 
何かを継続する時であっても、
何かを止める時であっても、
何かを決断する時であっても、
 
力を貸してくれる意識になると思う。
 
 
もちろん、その「見られている」意識が
逆にプレッシャーになりすぎるのなら、無理にしなくていい。
 
「見られている」意識も、たぶん筋肉と同じように
ちょっとずつ鍛えられて、負荷を力に変換できるものだから。
 
 
まぁ、ワタシの一日中をご先祖様とか
グレイトなんちゃらが見ていたら、
 
「お、、、おまえなぁ、、、、」
 
と呆れられる姿のオンパレードなので、
スイッチのオンオフは、
自分勝手に決めていいんやで!!!!!
 
 
ではでは。
 
 

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