「あの人は大人だなぁ」
とか、
「まだまだ子供だよね」
とか、実際の年齢とは別に
「大人、子供」という話をすることって、あるよね?
でも、具体的に、
どういう人が大人で、どういう人が子供なのか?
ということは、あまり定義されないままに
なんとなく話されている事が多いと思うんだよね。
あなたの中には、明確な
「こういう人は大人で、
こういう人は子供」
という定義はあるだろうか?
私は以前は、
「選択肢の多い人が大人で、
選択肢が少ない人が子供」
という定義を、自分の中でしていた。
その時その時に、たくさんの選択肢の中から
ベストの選択肢を選べる人が、大人。
いつもいつも、1つか2つの行動の選択肢しか
思い浮かばない人が子供。
ベストだと思ったら、怒るとか、戦うという
ことも選べるのが大人。
ベストかどうかを選ばずに、
同じ反応しかできない人が子供。
そんな風に定義していたんだよね。
(まぁ、私は定義づけ大好き人間だから
こんな、しょーもないことも考えるんだけれど)
これはこれで、それほど間違っては
いないと思うんだけれど、もう少し別の考えもできるな、
と最近知ったので、シェアしたいと思う。
あなただったら、「大人」「子供」を
どう定義するかを考えてみてから読んでも
面白いかもしれないね。
私が最近感じた、「大人」「子供」の差。
それは、「許可」というキーワードなんだよね。
大人は、「許可」を与えることができる。
子供は、「許可」をもらう。
たとえば、
子供は、どこかに遊びに行くのも、
「ねぇ、遊びに行っていい?」
と、大人に聞いてから遊びに行く。
子供は、何かを食べたかったとしても、
「アイスクリーム食べていい?」
と、大人に聞いて、許可をもらってからじゃないと
食べることができない。
そして、許可された後は、
もしその結果、よくないことが起きた時は
「だって“やっていいよ”って言われたもん!」
と、責任を取らなくてよくなる。
対して。
大人は「許可」を与える方だ。
「コレはやっていい」
「アレはやっちゃダメ」
と、自分が責任を負える範囲内で
誰かに許可を出すことができる。
その結果、
生じたことに責任を持たなくちゃいけないけれど
その分、自由であるとも言えるだろう。
なので、
許可を与えられる範囲が広ければ広いほど、
大きければ大きいほど、その人の「大人度」は
高いと言えるかもしれない。
あなたは、どう考え、どう感じるだろう?
そして。
この定義に気づかされた時、
さらに恐ろしいことに気づいちゃったんだよね。
というのは、
当たり前の話なんだけれど、
昔は、誰もが子供だった。
なので、誰もがはじめは「許可をもらう」ところから
人生が始まっていると言っていいかもしれない。
(生後、間もない赤ちゃんは別かもしれないけれど)
ということは、誰もがまずは
「許可とは、もらうものである」
ということを、知らず知らずのうちに
「教育」されちゃっているんだよね。
その後、成長するにしたがって
「許可をする」「許可を与える」
ということをしていくようになるんだけれど、
「許可をする」「与える」ということは、
誰からも教育はされない。
自分で、気づいていかなければいけない課題なんだよね。
結果として。
「許可をもらう」という教育から、
自力で脱出するタイミングを逸してしまった人が、
けっこうたくさんいるような気がする。
もちろん、
「この分野は、許可を出せる」
みたいのは、年齢を重ねれば、誰もがいくつかは
持っているだろう。
でも、私も含めて・・・というか、私を筆頭に
多くの分野で、まだまだ
「許可をもらわないと、いけないんじゃないか?」
「誰かに許可をもらって、その中で行動したい」
「何かがあった時は、許可をした人に
責任を取ってもらいたい」
と思っちゃっているなぁ、
と、背筋が寒くなったんだよね。
「この人と友達になっていいの?」
「これを選んでいいの?」
「食べていいの?」
「キスしていいの?」
「お金を受け取っていいの?」
「働いていいの?」
「働かなくていいの?」
「笑っていいの?」
「泣いていいの?」
「生きてていいの?」
人や社会に迷惑がかかるかもしれない。
でも、そもそも生きているってことは、
何かの命をいただき、何かを破壊しながらじゃないと
生きられないという側面もある。
それでも、自分自身に「許可」を出して行くのが
「大人の生き方」なのかもなぁ、
と、考えた次第。
まぁ、そんな壮大な話じゃなくても、
ほんのささいなこと、
たとえば、
「大声で笑っていいの?」
なんてことも、いつのまにか
自分で自分に許可を出していないなぁ、
なんて思わない?
バカでかい声で、大いに笑ってみる。
そんなことが、実は
「本当の大人」
への、第一歩なのかもしれないね。
ではでは。