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劣等感は愛の成長痛。

コンプレックスを感じる事ってあるよね。
 
 
自分より明らかに能力の高い人。
 
自分よりうまい切り返しができる人。
 
自分より社会的にうまくいっている人。
 
 
そんな人に会うと、自分がどうしようもなく
くだらない人間に思えて、
今まで手にして来たものも、無価値に思えたりする。
 
 
 
また、劣等感とは違うのだけれど、
自分の存在が大したことないと
思わされることもある。
 
 
それはほんの些細なことで。
 
 
誰かから返信がこなかった、とか。
 
「こうしたい」という気持ちを
察してもらえなかった、とか。
 
 
 
そんな時は、
 
「あの人にとって、私はそんなものなんだな」
 
なんて思えてしまう。
 
 
 
自分にとって、どうでもいい人であれば
その痛みも無視することができるだろう。
 
でも、
大切にしたい人、重要な人であればあるほど
劣等感や無価値感に焼かれることになる。
 
 
 
そんなみじめな気持ちに、じりじりと炙られる時。
 
目の前には、2つの道具が
差し出されているのを知っている?
 
 
ひとつは、ナイフ。
もうひとつは、毛布。
 
 
さあ、どちらを選ぶ?
 
 
 
 
その手にナイフを握ることを選ぶ。
すると、どうなるだろう?
 
 
相手を攻撃することができる。
自分を刺すこともできる。
 
しかしそのどちらもが
痛みをより大きくする結末を呼ぶ。
 
 
相手を攻撃して、相手が反撃して来たら?
どちらもが、傷つく。
傷つきたくないし、傷つかせたくもないのに。
 
 
ではあなたが相手を切りつけ、刺したのに、
相手がそれを微笑みで受け止めたら?
 
相手の愛の大きさに触れ、
より大きな劣等感にうちひしがられるだけだ。
 
 
いずれにしても、望む結果は得られない。
 
 
 
では、誰かではなく自分。
自分の至らなさにナイフを突き立てたら?
 
 
無価値感の痛みの患部を摘出するつもりが、
さらに大きな傷口を作り、
自分を動けなくさせてしまう。
 
これも、誰も、何も得ることのない結末だ。
 
 
だから、どんなにナイフが魅力的に誘惑してきたとしても、
それを手に取ることは、意味がない。
 
 
その場の感情に任せるにしても、
長年かけて劣等感を解消しようとしても、
ナイフを握っている以上、本人も誰も幸せにならないのだ。
 
 
 
 
では、もう一つの選択肢、毛布ならば?
 
自分が無価値な人間に思えても、
そこでナイフでなく毛布を手に取ることができたら?
 
 
あなたの想いは、
誰かを温めるやさしさにできる。
 
 
そこまで大きな人間に、すぐには
なれなかったとしても、毛布を手にすれば
自分を癒し、涙をぬぐうことはできるだろう。
 
そして、自分自身だけでなく、
多くの人を包む自分に、いつか会えるようになる。
 
 
 
いや、時間はかかるだろう。
なんの解決にもなってないようにも見える。
 
 
でも、それでもナイフよりも
賢明な選択だったことに、どこかで気が付ける。
 
 
 
二者択一。
 
 
恐怖は、その手にナイフを選ばせ、
愛は、毛布を選ぼうとする意志になる。
 
 
 
 
ね。
 
 
劣等感は、自分の中の愛を育たせる風雨。
いわば成長痛みたいなものだ。
 
 
その痛みにかられて、
自分を守るためにナイフを手に取れば
結局は自分を傷つけ、他者も破壊する。
 
 
辛くても、
もう一つの選択肢である毛布を手に取れば
風雨をしのぎ、他者を理解できる。
 
 
そしていつか風雨が去り、痛みが消えた時に
見える景色は、変わる。
 
 
どちらの景色を見るのも、
いま手にするもので決めることができる。
 
 
 
自分が劣等感、無価値感に襲われた時、
目の前にはナイフと毛布があり、
そのどちらも選べること。
 
 
それをイメージするだけで、
少しはましな、少しは捨てたもんじゃない
自分を保てるような気がするんだ。
 
 
必要な方へ。ではでは。
 

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