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世にはばかると、憎まれる!?

「憎まれっ子、世にはばかる」
 
っていう言葉があるよね?
 
 
人から
 
「うわ!マジ最悪!」
 
「あの人、キライ!」
 
と憎まれるような人であるほど、
逆に世間ではのしあがっていき、幅をきかせる、
みたいな意味の言葉だ。
 
 
これは、ある側面では真実だなぁ、
なんて思うんだよね。
 
 
 
 
たとえば、わかりやすい例で言えば、
芸能界の重鎮と呼ばれるような人は、たいてい
 
「嫌いな芸能人」
 
として名前があがる(あるいはあがっていた)ことが多いし、
政治家さんとかでも、そんな傾向はあるのかもしれない。
 
 
 
もちろん例外というか、人からほとんど嫌われないで
社会的に認められている人もいるけれど、
 
では、なんで多くの人に「キライ!」と言われている人が
世にはばかるケースも多いんだろう?
 
 
今回は、そんなことを考えてみることにした。
 
 
 
 
 
さて。
 
 
今回のテーマである「憎まれっ子、世にはばかる」の理由は
いくつかあると思うんだけれど、
その中でも最も大きな理由のひとつは、
 
 
「他の人と違うことを発信するから」
 
 
のように思う。
 
 
 
世の中には、さまざまな価値観がある。
 
 
Aということを「大好き」「正しい」とする人がいれば、
ほとんど同じ数だけ「大嫌い」「そんなのダメ」
としている人もいるのが現実のように思う。
 
 
そんな中で、普通の人は自分の意見を持ちつつも、
そんなに大々的に世間に
 
 
「私は、こう思う」
 
 
ということを、過剰に発信したりはしない。
 
 
 
「こういう意見には賛成です」
 
「この人が言っていることに、
 私もほぼ同意します」
 
 
くらいのことは言ったとしても、
 
 
「俺の世界観は、こうなんだぁぁぁーーーっ!!!」
 
 
「なんと言われても、そんなの関係ねぇ!
 俺の、俺の、俺の話を聞けぇぇぇぃ!!!!」
 
 
というほど、とんがって発信する人は少ない。
 
 
少ないからこそ、
 
 
「この人の言っている意見、面白いぞ!」
 
 
と、注目を浴びることになる。
 
 
 
が、
 
 
とんがった意見であればあるほど、
 
 
「私は、そうは思わない」
 
「あの人の考え方、キライ」
 
「いいね!じゃなくて、よくないね!」
 
 
という人も、同じように増えて行く、という。
 
 
 
そして、
 
 
「好き!」
 
とか
 
「悪くない」
 
 
という意見よりも、ネガティブな
 
 
「キライ!」
 
「あかん!」
 
 
というエネルギーの方が強いし目立つから、
 
 
「あの人は、みんなから嫌われているのに、
 社会的には、ふんぞりかえっているのだろう?」
 
 
と見える、ということがあるんじゃないかな?と思う。
 
 
 
 
あとは、人はその人との関係性が遠くなればなるほど
その人の「実際やっていること」よりも「印象」で
好き嫌いを決める、という傾向が、誰しもある。
 
 
だから、パッと見の「印象」が悪かったり、
印象が悪くなるようなエピソードがあったり、
自分の周りの人が「キライ」と言っていたりすると、
 
とたんに「キライ」方面に心の針が傾いたりする。
 
芸能人さんなんか、そんな人が多いよねきっと。
 
 
 
なにかをやろうとした時には、
いろんなトライ&エラーがあってしかるべしだし、
 
社会的に認められている人は、
そんなトライ&エラーの数が、他の人よりも多い。
 
 
そんなトライ&エラーの過程で
 
「やっちゃったエピソード」
 
「人に印象が悪いエピソード」
 
なんていうのが生まれてしまうのは、
多少は仕方のないことなのかな?
 
なんて風にも思う。
 
 
 
これは個人的な意見になるけれど、
少なくとも、何にも挑戦しないで誰からも憎まれないかわりに、
誰からも存在を認識されない人よりは、
 
「憎まれっ子」
 
になるのをいとわない人の方が、好きだなぁ、
なんて思うんだよね。
 
 
 
また、他の人がしない発信をする、ということなんだから、
おそらくその人は、人間的にどこか
 
「欠けている」
 
ことも多い。
 
 
というか、今まで私が実際に出会ってきた
社会的にすごいと言われている人は、
どこか人間的にオカシイ人ばかりだった。
 
ま、人のことは言えないんだけれどね。全然(笑)
 
 
 
欠けているから、人と違うことが出来る。
 
人と違うことが出来るから、世に出る。
 
そして、人と違うから、叩かれもする。
 
 
 
そんな感じなんだろうなぁ、なんて思う。
 
 
 
 
 
さてさて。
 
 
この世に生まれてきた以上、誰しも多くの人に愛されたい。
 
 
でも、自分の意見を言うということは、
それに大して反対を表明する人も絶対に出てきてしまう。
 
 
「誰ひとり私を嫌わずに、
 自分の自由に生きる」
 
 
なんていう偉業を達成した人は、
人類史上、一人としていない。
 
 
どこかからは、嫌われる。
 
もしくは、存在を認められない、
毒にも薬にもならないモブキャラ人生。
 
 
そのどっちかだ。
 
 
 
もちろん、どちらを選んでも、その人の自由だ。
 
 
でも、個人的には、
 
自分の周りに、熱烈な理解者が何人かいれば
それで幸せなように思う。
 
 
何かを発信するということは、
ネガティブな反応もセットという現実があるかもしれない。
 
 
それでも、発信する勇気を持った人が
 
「世にはばかる」
 
のは、ある意味、代償を払った報酬なのかもしれないよね。
 
 
ではでは。

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