今回の話は、ちょい伝わりにくいかもしれない。
それでも、丁寧に書いて行こうと思う。
先日、
尊敬している、とある人と久しぶりに会食をした。
その中で、
「自分が、どれだけニュートラルでいられるかが大切」
という話をしてもらった。
自分にとってプラスのことがあっても、
不幸せなことがあっても、
それはどちらも、あって然るべきこと。
一喜一憂するのではなく、
その起きたことを、あるがままに。
そんな「ニュートラル」でいることが大切だ、と。
私なんかは、つい
自分にとって都合のいいことが起きれば喜び、
心乱れることがあれば、怒り、悲しんでしまう。
でも、必要以上に幸せを望めば、それは執着となり、
不幸をすべて避けようとすれば、ビジョンを見失う。
だから、彼の言う「ニュートラル」でいることの
大切さは理解できる。
少なくとも、頭では。
そんな会食からしばらく過ぎ、
「ああ、そうか」と腑に落ちたことがあった。
「ニュートラル」というと、少しクールすぎるというか
人間味がないように感じてしまうけれど、これが
「ごきげん」
だったら、私はストンと納得できる。
残念なことが出来事として起きたとしても
自分の心は「ごきげん」でいていい。
逆に、ものすごくラッキーなことが起きたとしても、
それに狂喜乱舞するのではなく、
「ごきげん」くらいでいられるのも、いい。
自分が、自分のまま、高波動でいられる。
プラスにも、マイナスにも偏り過ぎていない状態。
それを今、私が表すとしたら「ごきげん」だな、と。
そして。
そこから、ふと考えてみると、
私たちがやっていることのすべては、
【 ごきげんであるためのメンテナンス 】
なんじゃないかと思えてきた。
朝起きて、歯を磨くことも。ゴミを出すことも。
仕事に向かい、仕事をこなすことも。
人と関わることも。
気を遣うことも。約束を守ることも、破ることも。
筋トレをすることも。美を追求することも。
トイレに行くことも。
食事をし、お酒を飲み、たばこを吸い、
趣味に興じ、サボり、遊ぶことも。
人と意見をぶつけ合うことも。
誰かとケンカすることも。悪口を言うことも。
怒ることも、悲しむことも。
誰かを愛することも。別れることも。
夜眠ることも。呼吸することも。
すべて、
「どうやったら自分がごきげんに近づくか?」
という、プロセスなんじゃないかな、と思う。
すぐに「ごきげん」に近づけることを
「成功」、もしくは「快感」と言い、
「ごきげん」に遠いけれど、
そこを経なければ「ごきげん」になれないことを
「義務」、「学び」、「喪失感」。あるいは「失敗」と名付ける。
そんな気がする。
そして。
人によって、
本人の「ごきげん」に近づくアプローチが違い、
選択肢の幅も差があることが、
それぞれの反応を生み出しているようにも思う。
それでも、
私たちが目指している究極の目的は「ごきげん」で、
すべての行為は、全部「ごきげん」であるための
メンテナンスなんじゃないかな?と思う。
なんで「プロセス」とか「手段」じゃなくて
「メンテナンス」と言っているかというと、
他の言葉よりも、本人の意思が入るから。
部屋が散らかった状態のまま放っておいたら、
いつまでも「ごきげん」にはなりにくい。
でも、そこに片付けという「メンテナンス」が入るから
「ごきげん」に近づける。
仲の悪くなった人との関係を放置すれば、
そのまま絆は腐ってゆくだろう。
でも、そこに歩み寄りや理解しようする
「メンテナンス」という意思が入るから、
きっと「ごきげん」に近づける。
だから、
おそらく、私たちがやっていることの
ほとんどすべては、何か次のための
「メンテナンス」で、
究極的には、自分が「ごきげん」でいられる、
というのが、無意識下での目的のように思う。
それが、表面的には貢献であれ、自分勝手であれ、
自己卑下であれ、誰かに対する批判や罵倒であれ。
さて。
分かりにくい文章に付き合ってくれてありがとう。
もしかしたら、「ごきげん」は「ニュートラル」じゃない。
そうかもしれない。
その上で、現時点の私は、
「ああ、これも自分がごきげんに近づくための
メンテナンスなんだな」
と思えたら、なんでもやって行けるように思うし、
ニュートラルに近しい感覚になれるように思う。
で、
仮に、もしすべての人が
「ごきげんに近づく」
のが突き詰めた目的なのだとしたら、
おそらく
「誰かのごきげんのメンテナンスを手伝う」
ことが、仕事の本質であり、人間関係の本質なのかもしれない
なんてことも思う。
誰かを「ごきげん」から遠ざけて、
自分の「ごきげん」を整えようとする。
それは、あまり歓迎されないのだろうな、と思う。
どうだろう?
この文章は、あなたの「ごきげん」に
少しでも近づきましたか?
ではでは。