「人は環境によって変わる」
「育った環境のせいだ」
なんて、けっこう「環境」は重要視されるよね。
じゃあ、こういった意味で使われる時の
「環境」って、つまりどういうことなのだろう?
ブラック企業は良くない環境で、
ホワイト企業は良い環境?
ゴチャっとしているのは良くない環境で、
整理整頓されているのは良い環境?
ケンカばっかりしている両親のもとは良くない環境で、
教育熱心な両親のもとは良い環境?
まぁ、そういう事もあるかもしれないけれど、
本人にとっての環境ってのは、かみ砕いて言うと
ちょっと違う気がする。
では何なのか?
私は環境とは、
「観察」
である、と思う。
つまり、
「本人が、何をどう見て、
まわりの人にどう見られているか?」
こそが環境の正体なんじゃないかな?
まわりから
「あいつはダメな奴だ」
と見られていたら、その人は
しだいにその「観察」の期待に応えるように
ダメになってゆく。
逆に、
「あの人は頼りがいのある天才だ」
と見られていたら、
その人が生来どうであろうが
「頼りがいのある天才」として振る舞うようになり、
現実にもそれが波及してくる。
もちろん誰しも、複数の環境を持っているだろう。
家庭もあれば、
仕事場もあれば、
趣味のコミュニティもある。
その環境の数だけ、
あなたも複数の顔を持つだろう。
同じ環境内であっても、
Aさんとだけいる時に見せる顔と
Bさんもいる時に見せる顔は違ってくる。
それは別の人の「観察」が入るために
環境が変容していることになるからだ。
小さな子供時代は、
親の「観察」こそが本人の「環境」になる。
清潔に保たれた部屋で、
なに不自由ない生活をしていたとしても、親に
「あなたはバカな子だ」
という「観察」をされ続けた子は、トラウマを負う。
どんなに貧乏であっても、
「あなたは素晴らしい!」
という「観察」を親にされた子は、まっすぐ育つだろう。
アウトローのたまり場であっても、
「あいつは頼れるヤツ」
と、まわりから「観察」されている人にとっては、
その場は「守るべき良い環境」だろうし、
大企業に勤めていても、
「あいつはダメ社員」
と「観察」されている人にとっては、
毎日が苦しくてしょうがないだろう。
そして。
「観察」は、されるだけじゃない。
自分自身が、今いる場所を
どう「観察」しているのかでも環境は変わってくる。
いま自分がいる場所を
「最悪な環境だ」
と毎日「観察」し続けていれば、
その場所は本人の期待に応えるように
最悪な環境に汚染されてゆく。
逆に、他の人から見ると劣悪な環境であっても、
「観察」しだいによっては、素晴らしい環境に
変わっていく可能性だってある。
もし、誰からも見られることなく、
観察するのもされるのも自分しかいなかったら?
おそらく、そんな中で淀まず、
澄んだ状態で自分自身を観察し続けるのは
相当の精神力がないと無理だろう。
さてさて。
量子力学の観察者効果なんかを持ち出さなくても、
これは体験的に分かってもらえるんじゃないかと思う。
「見たものに解釈を加え、それに見合った扱いをする」
「見られたように自分の言動を期待に応えさせてゆく」
なので。
もし、今の自分を変えたいのであれば、
今いる環境以外を選択することだ。
そして環境の選択を具体定期に言うのであれば、
自分を「観察」する者を変えることであり、
自分が「観察」するもの自体、あるいは解釈を変えることだ。
おそらく気づいてくれるだろうけれど、
それを一人の力で成し遂げるのは、とてつもなく難しい。
だからもし、
さらなる人生の豊かさを求めるのであれば、
自分のまわりに、よい「観察者」を招き入れることが
最短ルートなんじゃないかな?なんて思う。
私を私たらしめている「観察」をしてくれている人たちに
心からの感謝を。
ではでは。