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フォーカスにフォーカスすると。

先日、仲良しの方が
「フォーカス」についての体験談を
話していてさ。
 
 
ある時、その人がお友達同士で
おそろいのバッグを買ったそうなのね。
 
で、買った直後に、
私の友達の友達の方が(ややこしい)
 
「このバッグの取っ手の付け根、
 なんか壊れちゃいそうじゃない?」
 
と、そのバッグの弱そうな部分を指摘したそうな。
 
 
ただ、本人の方は
 
「そう?」
 
と気にも留めず、毎日お気に入りで
何の問題もなく使い続け、
しばらくして友達に再会したところ。
 
 
指摘した友達の方のバッグは、
案の定、取っ手がボロボロになっていて、
会っている最中にポロリと取れてしまったそうだ。
 
 
一方は、毎日使っているわけでもないのに
壊れてしまい、
 
もう一人の方は、毎日毎日使っているのに
何の問題もない。
 
 
こんな体験から、
 
「やっぱり、
 フォーカスが結果を招くね」
 
というシェアをしてくれた。
 
 
 
他にも、
 
「とんでもない交通事故を起こす人の車中には
 ジャランジャランお守りがついている、
 という共通点がある」
 
といった話もしていて、
 
「事故を起こしたくない事故なんて事故なんてー!」
 
と思っていると、それが引き寄せられてしまうので、
やっぱりネガティブ面にフォーカスするのは
本人のためによろしくないね。とのことだった。
 
 
 
そんな話を聴いて「たしかにね~」と思った矢先、
ちょい別の考えも浮かんだ。
 
 
「あれ?いや、チョマテヨ。
 ネガティブ面にフォーカスするのは
 たしかにネガティブを引き寄せる」
 
「けど、じゃあ問題を解決しようとすると、
 それは問題を引き寄せるのかな?」
 
 
たとえば、
 
顔のシワが気になりだしたら、
やっぱりシワが増えちゃうのかな?
 
おなかの脂肪が気になりだしたら
ポヨヨン丸が仲間を呼んでやってくるのかな?
 
 
それじゃ、気にしない方がいいのかな?
いや、でも気になったりするし。
 
って、なるやん?
 
 
自分にとっての問題を解決するためには
その問題を「問題」としてとらえるのは仕方ない。
 
そして、問題にしたことによって
その問題を解決できることだって
あるよね?????
 
 
あれ??
 
ぬぬ???
 
 
と、一瞬混乱が起き、
 
「ぬぬ、問題はすべてスルーしておくのがいいの?
 でもなぁぁぁあぁぁあああああ」
 
と思考の樹海に迷い込みそうになったのだが。
 
 
 
これは、とってもシンプルな話に
自分の中で落ち着いた。
 
 
それは、
 
ネガティブなことや問題に
 
【 フォーカスすること自体 】
 
が悪いのではなく、
 
 
そこに、
 
【 どんなエネルギーを送るのか 】
 
が大事なことなんじゃないかな?と。
 
 
たとえば、
自分にとって、気になることがあるとする。
 
 
それは
 
バッグの取っ手が壊れることであったり、
 
車が事故ることであったり、
 
シワが目立ってきたことであったり、
 
おなかにポヨヨン丸が住みついたり、
 
お金がどうとか、
 
人間関係がどうとか、
 
匚口七(鏡文字)がどうとか、
 
まぁ、いろいろ。
 
 
それに対して、フォーカスするのは
仕方ない。にんげんだもの。
 
でも、そのうえで、
「どちらの」エネルギーを送るのかどうか?
を選べばいい。
 
 
人のエネルギーの出元は、
2つしかない。
 
 
愛が起源なのか、
恐怖が起源なのか。
 
 
 
愛。
 
それは「自分と外の境界をなくす」融合のエネルギーで、
その時々で、
 
勇気、自信、好奇心、やさしさ、
思いやり、慈しみ、喜び、楽しみ、感謝、
 
などとも表現される。
 
 
 
恐怖。
 
それは「外側から自分を防御」する断絶のエネルギーで、
 
その時々で、
 
怒り、不安、心配、妬み、
憎しみ、攻撃、優越感、虚無感、拒否、
 
などとも表現される。
 
 
 
愛のエネルギーでフォーカスするのか、
恐怖のエネルギーでフォーカスするのか?
 
 
フォーカス自体ではなく、
エネルギーの質が大事なんだなぁ、
と思う次第。
 
 
 
「バッグの取っ手が切れるか心配」
 
は、恐怖起源のエネルギーだ。
 
だから、その「恐怖という期待」に応えて
バッグの取っ手は切れた。
 
断絶のエネルギーだからね。
 
 
 
 
「しわが目立ってきたなぁ」
 
は、この時点では中立のエネルギーだ。
 
 
でも、そこから
 
「こんなシワ、なくなったらいいのに!」
 
「このまま年齢を重ねたら、、、、」
 
となったら、それは恐怖のエネルギーだ。
 
 
そうなったら、恐怖のエネルギーに呼応して
「お望み通り」シワは深く刻まれる。
 
 
 
そうではなく、
 
「ここまで大人になったんだなぁ」
 
「プルン!てなろう!トゥルン!って」
 
となったら、それは愛のエネルギーだ。
 
 
シワと断絶して戦うのではなく、
シワに潤いを与えて融合する。
 
そうすれば、フォーカスしていても
シワはうすらいでゆく。
 
 
 
融合のエネルギーを送れば、融合される。
断絶のエネルギーを送れば、断絶される。
 
 
そりゃ、当たり前だよね。
 
 
未来イメージが恐怖ならば恐怖のとおりに。
未来イメージが愛ならば愛のとおりに。
 
 
そりゃ、
いつもイメージどおりじゃないかもしれないけど、
基本は、そんな感じなのだろう。
 
 
おなかのポヨヨン丸にフォーカスしても、
それを憎んだり戦ったりするのではなく、
自分の体をいたわってあげて、
 
「あれ?最近けっこういい感じじゃね?」
 
と勘違いしていけば、いつのまにか
ポヨヨン丸は笑顔でグッバイだ。
 
 
お金も、心配するよりも
 
「なんだかんだで、今までやってこれてるやん」
 
「グラッチェマニー!」
 
と思っていた方が、なんとかなる(笑)
 
 
人間関係でイラっとしたら、
その時こそ、その人を愛するチャンス!
 
。。。なんだろうけれど、
そこまでワタシは人格形成されていないので、
自分自身のためにスルーする。
 
 
欠乏している時こそ、与えるチャンス!
でも、気持ちにそんな余裕がない時はスルー。
 
 
というのが、個人的には目指す方向だ。
(いつもできているワケじゃないが)。
 
 
 
そのうえで、
 
大事なことなので強調するが。
 
 
 
怒りたい人は怒ればいいし、
不安に思っちゃう人は不安になればいいし、
反抗したいのであれば、そうすればいい。
 
 
それは、その人の価値観だ。
 
 
 
「こうした方がいい」
「こうすべきである」
 
なんてことは、ない。
 
 
「すべき」は、他の否定になる。
 
 
「こうした方がいい」の反対は、
「こうするのが悪い」ではなく、
別の「こうした方がいい」との対立だ。
 
 
なので、本人の好きにするのがベスト!
 
 
 
ただ、
 
 
恐怖起源のエネルギーは恐怖を呼んで、
愛起源のエネルギーは愛を呼ぶ。
 
断絶のエネルギーは断絶を呼び、
融合のエネルギーは融合を呼ぶ。
 
 
それだけだ。
 
好みの方を選べばいい。
 
 
 
どっちでも自分が納得できる方に
時間とエネルギーを注ぐのがいいと思う。
 
どちらも、生きている限り
自分の中に存在し続けるエネルギーで、
片方が「いい」と言う時点でそれが断絶だからね(笑)
 
 
未来を描くのは、
未来じゃなくて今、ってことやろね。
 
 
 
あなたが望む未来にフォーカスを。
 
 
ではでは。
 
 

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