非凡な成果を出す人と、
平凡な成果しか出さない人の違い。
それは、色々あると思うけれど、
多くの人を人を見ている中で、
「ここは、間違いないな」
と思うことが、ひとつある。
それは、
「知っているつもりにならないこと」。
けっこう、
「それはもう分かっている」
「ああ、それね。知ってる知ってる」
と、無意識のうちにスルーしてしまうことって
日常でも多いよね。
でも、非凡な成果を出す人って、
大切なことだと思えば、同じ内容を何回も復習するし、
自分がプロフェッショナルの域に達している内容であっても
他の人が
「ねぇねぇ知ってる?○○って・・・」
って、話しだしたときには、ちゃんと耳を傾ける。
これは、本人の資質の問題もあるかもしれないけれど、
「知っているつもりになることを戒める」
と、意識してやっている人が、
非凡な成果を出すことが多いみたいだ。
この「知っているつもり」ってのは、
かなりやっかいなシロモノ。
ついつい無意識のうちに、
頭の中の「知っているフォルダー」に
なんでも入れたくなってしまうのが人間の性らしい。
たとえば、
あなたが普段使い慣れている電車の路線があるとしよう。
そして、その路線には
あなたが使い慣れている駅から、別の駅に行く間に
降りたことはないけれど、毎回通過する駅も
あることだと思う。
実際に降りたこともないし、
その駅の周辺に何があるのかなんてことも、
ほんのちょっとも知らない。
でも、
ただ「駅名を知っている」「毎回通過している」
というだけで、なんとなく
「知っている」
という気分になっていたりするよね?
実は、毎回通過している駅も
旅先で生まれて初めて降りる駅も、
度合いで言えば、同じくらい未知の領域だ。
なのに、
「あー、あの駅でしょ?
なんにもない、つまらない場所だよね」
とか、
「降りる人を見ると、
○○な感じの場所だと思うよ」
みたいに、「知っているつもり」になってしまう。
こんなことって、あると思う。
ふだん使い慣れている駅、というだけでも
こんな風に簡単に「知っているつもり」になっているんだから、
他の事でも、相当な思いこみで
「知っているつもり」になっているんじゃないかなぁ、
なんて思い返してみたんだよね。
普段やっている仕事。
普段会っている友達、家族。
そして、自分自身。
慣れているはずなのに、
いや、普段から慣れ親しんでいるからこそ
「知っているつもり」にしてしまっている事、もの、人って
相当あるのかもしれない。
普段は「通過する駅」みたいにスルーしていることでも、
実際に降り立って、向き合ってみると
全然違った風景をもたらし、違う気づきを得られる。
そんなことが、毎日の中に隠されているんだろう。
新しいものを日々取り込むのも素敵な事だと思うけれど、
普段、知らず知らずのうちに「通過」してしまっていた
「知っているつもり」になっているものにも
目を向けて見る。
そんな時間を持つのも、いいかもしれないよね。
ではでは。