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「顔晴る(がんばる)」に、違和感。

 
今回の記事は、たぶんたくさんの人を
敵に回す内容になっちゃうと思うけれど、
書かずにはいられない。
 
 
そんな雰囲気を感じながら、本文に入っていこう。
 
 
 
 
 
 
さて、最近、色んな「言葉遊び」や「漢字へのこだわり」
をする人がいるよね。
 
 
 
例えば、
 
 
「頑張る」と表現するところ「顔晴る」と書くとか、
 
 
「最高」を「最幸」と書くとか、
 
 
あるいは、「気」と書くところ全てに
「氣」という漢字を使うとか。
 
 
 
本人が気持ちよく使っているのを
否定するつもりはない。
 
 
私だって、シチュエーションによっては
使うものもある。
 
 
けれど、それはあくまで「内輪の使い方である」
ということを、意識しておいた方が良いと思うんだよね。
 
 
 
 
 
様々な事象に、よりプラスのイメージを持つことは大事だ。
 
それに、「気」に関しては、「氣」という字を使う方が
本来の意味合いからも正しいということも分かる。
 
 
 
 
 
 
 
でも、
 
 
言葉の持つ機能の中で、
最も大切なもののひとつが
 
「第3者に伝えること」
 
だと思うんだよね。
 
 
あまり極端に「言葉遊び」「漢字のこだわり」を持つと
この本来の機能が損なわれるように思うんだよね。
 
 
 
 
もちろん、自分がこだわりを持って使う言葉もあるだろうし、
信念をもって言葉を選んでいるのなら、
貫き通せばいいとも思う。
 
 
ただ、
 
 
のべつまくなしに、
 
「あ、なんとなくいいな」
 
というレベルで、言葉遊びを使いまくると、
いわゆる「ギョーカイ人」みたいに、
浮いてしまう可能性があることも事実だと思う。
 
 
 
「オハヨー。
 昨日、ぱいおつ、かいでーなデルモのチャンネェと
 飲んでてさぁ。あ、ヒーコー入れてくれる?」
 
 
なんてしゃべられたら、ちょっと引くよね(笑)?
 
 
 
 
 
 
「気」というところを、どんなシチュエーションでも
「氣」と使っていたら、
人間関係が開いていくどころか、〆められちゃった。
 
なんて、冗談にもならない。
 
 
 
なので、
 
 
使うのは自由。
 
こだわりを持つのも自由。
 
 
 
 
でも、一方で
 
「これは狭い世界で共有できる言葉の使い方だ」
 
という事実も分かった上で使い分けるといいな、
と思うんだよね。
 
 
 
もちろん、
 
「私は、“顔晴る”を標準語にするために命を捧げる」
 
という人は、そのまま使うのがいいと思うけれど。
 
 
 
「言葉遊び」を気持ちよく使えるコミュニティ内では
積極的に言葉を使って、仲間との絆を深める。
 
そして、そのコミュニティから一歩外に出た時には、
理性を持って、全員に伝わる言葉を選んで使う。
 
そんなバランスがいいと思うんだけれど、どうだろう?
 
 
 
 
 
 
 
今回は、漢字の使い方という事に焦点を絞ったけれど、
けっこう他のことでも、いつのまにか「閉じた世界」で
通用することを選択していることって、たくさんあると思う。
 
 
あいさつの仕方とか、
 
常識や礼儀作法とか、
 
仕事の進め方とか。
 
 
私自身、人の事をとやかく言う前に
自分が気をつけなければならないことばかりだ。
 
 
 
いつの間にか、自分が気がつかないうちに
自分が選択する前に「洗脳」されていることがないように、
気をつけていきたいものだよね。
 
 
ではでは。
 

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