私には、欲しい資格が3つある。
私にとっては、
それを手に入れるのは非常に困難で
だからこそ価値も高い。
その3つの資格とは、
「見栄を張る資格」
「大切にされる資格」
「言葉を放つ資格」
だ。
—
私は、見栄っ張りで、ええかっこしぃだ。
慕ってくれる人をエコヒイキしたいし、
なんでも「ええよええよ」と笑って
スマートに済ませたい。
自分にとってカッコイイものも
気兼ねなく手に入れたい。
でも、その見栄を完遂するのには
資格が必要だと思っている。
一過性でない、真の経済力。
精神的な余裕。
虚と実を見極める知性。
今は、自分が心から納得できる
「見栄を張る資格」を手に入れていない。
だから、私は、正しい努力をしていきたい。
—
私は、人から大切にされたい。
中でも、私が尊敬している人たちに、
心からの敬意をもって接して欲しい。
「人は、生きているだけで価値がある」
「存在しているだけでいい」
そんな考え方もあるし、
それらを否定したいわけでもない。
ただ、私個人としては、
それは、おためごかしだと思っているし、
疲れた人が、誰かにめぐんでもらった
言い訳のようにも感じている。
自分が大切にされるためには、
人々が大切にするだけの理由や価値がある。
つまり、資格がある。
その資格を手にしていないのに、
「大切にされたい」「甘えたい」となると、
そばにいる人の質が変わってくるように思う。
互いに敬意を払い、尊重し合っていたつもりが、
いつのまにか人が入れ替わり、
傷のなめ合いに堕してしまう。
いい悪いは置いておいて、
人には質があるし、類は友を呼ぶ。と思っている。
私は、私が心から尊敬してしまって仕方がない人に
大切にされるという「資格」が欲しい。
だから、私は、人格を磨きたい。
—
言葉は自由だ。
誰が何を言っても、現代の日本では許容される。
ただ、その言葉がどれだけ響くのかは
言葉を発した人の全人生まるごとにゆだねられる。
同じことを言ったとしても、
ある人が発した言葉は感銘を与え、
別の人が発した言葉は冷笑であしらわれる。
ある人が発した言葉は誰かの人生に行動を産み出し、
別の人が発した言葉は、その場でごみ箱に捨てられる。
若いうちはまだしも、
ある程度年齢を重ねてきたのに、
誰からも言葉を聴いてもらえないのは、
もう自分自身の責任以外の何物でもない。
薄べっちょろい人生だった、
と言われているようで、私は恐怖を感じる。
偉そうな言葉は、
どこかから引っ張ってくれば言える。
「自分の気づき」とやらも、
言葉をつむぐきっかけを与えてくれるだろう。
ただ、その言葉を放つには、資格がいる。
実績、あり方、人との関係性。。。
人間の社会は、言葉でできている。そう思っている。
だから言葉で構築されている社会で
自由に言葉を放ち、
その言葉に耳を傾けてもらうための資格が欲しい。
その資格を得るためには、
言葉をみがく必要はない。
むしろ言葉で糊塗すると腐る。
だから、私は、言外を研ぎ続けていきたい。
—
さてさて。
今日書いたのは、あくまで
「私が欲しい3つの資格」。
完全に私見だし、違う考えを持つ人もいるだろう。
当たり前だ。違う人生なのだから。
私は、資格が欲しい。
あなたは、何が欲しい?
ではでは。