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もう誰にも、あこがれない。

最近、人づきあいにおいて
気をつけていることの一つに
 
「あこがれの気持ちは持たない」
 
ってのがある。
 
 
、、、そうじゃねーよ。
ネガティブな意味じゃねーよ。
 
 
いや、初めて会う人も、おなじみの人も
魅力的な人はたくさんいるし、
心から尊敬したりもする。
 
ただ、「あこがれ」は持たないように
少し気を付けている、って話。
 
 
 
なぜなら、「あこがれ」って
まかり間違えば、
 
「この人は、こうであるに違いない」
 
という決めつけにつながり、ひいては
 
「なーんだ、こんな残念な面もあったのか」
 
とか、
 
「なんだよ!裏切られた!」
 
みたいな幻滅につながったりもするからだ。
 
 
それって、ワタシがあこがれちゃった人からすれば
たまったもんじゃないやろ?
 
 
 
その人は普通にしていたかもしれないし、
多少はカッコつけてたかもしれない。
 
 
でも、いずれにしても
「あこがれ」という固定化をしたのは私で、
その人は生きている人間だ。
 
 
人間は一側面では計り知れないし、
毎日の変化の中で生きている。
 
それを勝手に固定化して、
勝手に幻想を作り、勝手に幻滅するのは
単なる、はた迷惑な行為だ。
 
 
なので、どんなに素晴らしい人に会っても、
「あこがれという固定化」はしないようにしている。
 
それは、私自身のためでもあるし、
その人と「きちんと人として付き合う」という
マナーでもあると思う。
 
 
 
話が多少拡大するが、 
たいていの「悪」は、「固定化」から生ずる。
 
 
期待するのはいいけれど、
期待が固定化すると執着になる。
 
 
心配というのは、
「こうならないでほしい」という未来の固定化だ。
 
 
後悔というのは、過去の解釈の固定化であり、
「今ならもっとマシな選択ができるはず」という
自分のエゴの固定化でもある。
 
 
また、「私って○○だから~」ってのは、
自分の見え方を固定、強制している言動だし、
イタいブランディングは見せ方の固定化だ。
 
 
さらに所有という概念は、
何かを留まらせておくという固定化で、
それが行き過ぎるから貧富の差ができてくる。
 
 
 
そう。
 
 
世界の本質は、固定ではなく流動であり、
一面ではなく多面的(いや、面ですらない)だ。
 
 
もちろん、「間」ってぇのがあるから
すべての停止がダメってワケじゃないけれど、
それを恣意的に固めておこうってのは、
やっぱエゴになっちまうんだろうね。
 
 
 
 
さてさて。
 
 
ま、「あこがれ」から話がやや大きくなっちゃたけれど、
なにかを固定しよう、とどめておこう、ってすると
どこかで「よどみ」が発生するのが自然なのかもね。
 
 
だから、自然が許す範囲内で
とどまり、また流れる、ってのが
生きやすい生き方になるんやろね。
 
 
 
あ、誤解はないと思うけれど、
 
「みんなみんな大っ嫌い!もう知らない!」
 
って話でもないし、
 
「フリーダーーム!!」
 
って全部を流されるままにするのがいいぜ!
って話でもない。
 
 
バランスですな、バランス。
 
固定したい気持ちを認めつつ、
それをほどける自分でありたいもんでありんす。
 
 
ではでは。
 
 

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