「準備とは?」
昨日、ちょっとしたパーティ・イベントに参加してきた。
きっかけは、友人からの
「今度、パーティがあるんだけれど、参加しない?」
という気軽な誘いだった。
個人的には、パーティというものは、
あまり得意ではないのだが、
「その友人が誘うのならば行ってみようか!」
という、完全に「内容じゃなくて、人で決めた」行動だった。
行ってみると、予想していたよりも
はるかに「すげー!」パーティで、
安倍首相の奥様が列席、あいさつするわ、
世界的に有名なデザイナーさんが来ているわ、
各国の大使が顔を連ねているわと、
間違いなく私は「場違い」な感じだった。
で。
私を誘ってくれた友人は、
そのパーティの司会をつとめていたんだけれど、
今日は、その友人にスポットを当てた話。
そのパーティ自体は、それほど長いものではなく、
2時間弱のものだった。
そして、友人の司会っぷりは、
とてもスムーズで、流れるようなものであった。
おそらく
「おおおお!!!
なんかこの司会は、ものすごく目立つぞ!」
「あの司会は、ロックスターのようだ!」
なんていう感想を持たれるのではなく、
イベントの進行という最大の目的に沿った、
とても落ち着いた司会だった。
だから、たぶんパーティに参加した人に
2~3日経ったあとに、
「あのパーティの司会の顔を覚えていますか?」
と質問をしても、
忘れている人の方が多いように思う。
しかし。
「2時間弱のパーティがスムーズに進行する」
ということのために、
友人は、ものすごい準備を重ねていたんだよね。
主催者と何回も打合せを重ね、
人間関係を築き、
台本を何度も何度も作り直し、
周りの他のスタッフにも気を配る。
それを、何週間も前から、
刃を研ぐように、準備に準備を重ねてきた。
私は今回はパーティに参加しただけなので
詳しくは分からないんだけれど、
友人の話を、ちょっと隣で聞いているだけでも、
「本当に、大変だなぁ」
と、頭が下がったんだよね。
パーティ中に、あいさつをする人を
どんな肩書きで紹介するのか?
ということが、土壇場になって変更になったり、
海外からのお客様の、
ちょっと日本人には発音しにくい名前の方の
名前をスムーズに言えるようにしたりと、
パーティが始まる直前まで、
ギリギリの調整が続いていたんだよね。
中でも「そこまで気を遣うのか!?」と驚いたのが
パーティの中で何回か使われる
「世界一の」
という言葉。
その「世界一の」という言葉の
「はじめの方にアクセントをつけて発音するのか?」
「それとも、真ん中にアクセントをつけて発音するのか?」
ということを統一しなければ、
ということにまで、配慮の範囲は及んでいた。
聞いているお客様が、ちょっとでも違和感を感じないように、
本当に細かな部分にまで、準備に準備を重ねていた。
それを隣で聞いていた私は、
「そこまでの配慮が必要なんだ!!!?」
とビックリしたんだよね。
そして。
滞りなくパーティが成功したあと、
友人は言った。
「今回のパーティ、関わってくれた
誰一人として、欠けたらできなかった。
チームの勝利だね」
と。
この言葉が、しらじらしく聞こえるんなら、
私もこんな記事にして、書かない。
彼が、本当に心から思っているんだろうなぁ、
と感じるからこそ、
「本当に、すげーや」
と舌を巻くんだよね。
たった数時間のために。
そして、
たぶん数日後にはほとんどの人から
顔も思い出されないであろうイベントのために。
何週間も、いや、もしかしたら何カ月も前から、
刃を研ぐように準備に準備を重ね、
ひとつの単語のイントネーションにまで気を配る。
さらに、
そのような努力を、他の人もしているはず、
ということにまで考えを働かせて、ねぎらう。
「準備、っていうのは、こういうものだ」
「そんな準備があるからこそ、
滞りなく、物事が進むんだ」
そんなことを教えてもらった気がしたんだよね。
友人の、その準備のひたむきさを見て、
普段はひねくれ者の私も、
「なんか、みんなの“準備”があって、
日常はできているんだなぁ」
なんていう思いを馳せてしまったんだよね。
この記事を読んでいるあなたも、
日常でたくさんのことが、滞りなく進むように、
いろいろ準備をしたりもしていると思う。
すべてのひとの「準備」が、
私たちの「日常」を作ってくれていることに
敬意を表して。
ではでは。