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ウシのように悲しむ人。

日々生活しているだけでも、
けっこう色んな事が起きるよね。
 
 
その中には、嬉しいことばかりじゃなくて
悲しいことも起こると思う。
 
 
 
もちろん、私も例外ではなくて、
 
「いやっほぅ!ハレルヤ俺!」
 
と思うことも起きるし、逆に
 
「これは迫害されているレベルやわー」
 
と思うような、悲しいことも起きる。
(この表現では、全然悲しさが伝わらないな(笑))
 
 
 
ただ、意識しているのは、
 
「ウシのように悲しむのは、
 出来る限りやめよう」
 
ということ。
 
 
 
「は?イグゼロさんはウシみたいに悲しむんですか?
 っていうか、そもそもウシなんですか?
 あなたは何者なんですか?」
 
 
と思うかもしれないが、たぶんあなたも
ウシのように悲しんだことはあると思う。
 
 
 
どういうことか?と言うと。
 
 
ほら、ウシって、牧草を食べる時、
一気に消化しないで反芻(はんすう)するじゃない?
 
 
胃に入った牧草を、もう一度口に戻して噛んで、
また胃に入れる。
 
その繰り返しで、じっくり消化していく。
 
 
 
 
それと同じように、人は過去に起きた悲しい出来事を
何回も思いだして、
 
 
「ああ、なんて悲しいことが起きたんだろう」
 
 
と、悲しみを「反芻」することがある。
 
 
 
あなたも、経験がないかな?
 
 
 
もうずいぶん前の出来事であるにもかかわらず、
せっせと思い出しては
 
「ああ、なんて悲しいことがあったんだろう」
 
と、心を痛める。
 
 
 
強烈な時には、もう何年も前の出来事なのに、
毎日毎日同じ「悲しみのストーリー」を自分に言い聞かせ、
 
 
「ああ、悲しい。ああ、悲しい」
 
 
と、以前よりも強固に思い出の縄を編んでゆく。
 
 
 
 
個人的には、悲しむことは悪いことではないと思う。
 
 
人間として生まれたのだから、様々な感情があるだろう。
 
喜びだけを感じているよりも、悲しみも感じた方が自然だし、
美しいとも思う。
 
 
悲しみを思い出すのも、
その心の痛みを癒すためには、必要なプロセスであることもある。
 
 
 
ただ、
 
 
あまりに度が過ぎると、その悲しみは毒となり、
人を蝕み始める。
 
 
その毒は、人から「素直さ」を奪ってゆく。
 
 
 
 
せっかく良いことが起きても、
 
「ふん、どうせこんなの一時的なものだ」
 
と、素直に喜べなくなる。
 
 
 
また、誰かが手を差し伸べてアドバイスしても、
 
 
「そんなあわれみは、いらない」
 
「そんなの、あなただから出来るんだ」
 
 
と、素直に耳を傾けられなくなることもある。
 
 
 
 
悲しむことは必要だし、美しい。
 
 
しかし、我々はウシじゃない。
 
 
 
何回も何回も腹から取り出しては
 
「ああ、悲しい」
 
と、モグモグする必要はない。
 
 
 
人は、何回も「反芻」しなくても、
悲しみを消化できる。
 
 
もちろん、時間がかかることもあるだろうけれど、
積極的に腹から戻さなくてもいい。
 
 
 
腹から悲しみを取り出してモグモグしている間は、
新しい喜びも、口にすることはできない。
 
 
 
悲しい思い出を、つい思い出して
しまうことはあるだろうけれど、 
出来る限り「反芻」は、しない方がいいのかもね。
 
 
 
 
もし「反芻」が始まりそうだったら、
 
たとえば空を見たり、
 
たとえば人と会ったり、
 
たとえば歌ってみたり、
 
別のことをやってみるのがいいかな?
と思う。
 
 
 
悲しみから逃げるのではなく、
 
でも、必要以上に何回も取り出すのでもなく、
時間をかけて、腹の中で消化できるようになると
いいのかもしれないよね。
 
 
 
と言っている私自身も、
もちろん、ついついウシのように
 
 
「ああ、あれは悲しかったな」
 
「あの時は、本当に辛かった」
 
 
と「反芻」してしまうことも、たくさんある。
 
 
 
でも、出来る限り
毒になるような反芻はしないように、
「セルフなでなで」を続けたいな、と思います(笑)
 
 
 
ではでは。
 

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