とある老人ホーム。
とりたてて、これと言った特長もない老人ホームの中で、
今日もホームに住む老人たちが会話を楽しんでいた。
「いやぁ、昨日は月まで旅行に行ってきましたよ。
月から見る地球が、本当に青く美しく、びっくりしました」
また別の老婦人が話す。
「私は、先週オリンピックに出ましたわ。
一着でゴールのテープを切ったあの感触は、
一生忘れられない思い出ですわ」
さらに別の男性は
「オリンピック、いいものですなぁ。
私も以前、マラソン、スキー、フィギュアスケートで
それぞれ金メダルを取りました」
お互いがお互いに、自分の体験を楽しそうに話す。
もちろん、老人たちが話している体験は、
本人が実際に体験したものではない。
老人たちが自分で購入した記憶だ。
現在では、脳の仕組みが解明されたことによって、
どんな記憶でも買うことが出来る。
特殊な機械で脳に刺激を加えることにより、
大金持ちになった思い出を持つことも出来るし、
異性にチヤホヤされる記憶も朝飯前だ。
もちろん、記憶を買ったからといって
実際の生活は、お金持ちになったり、
異性にもてたりするわけではない。
なので、
「まやかしの記憶に逃避してはいけない」
と言い始める人がいたり、
「向上心の欠如を生み、モラルが乱れる」
などと、危険性を訴える意見も多い。
しかし、すでに現役を引退した老人たちの間では、
この記憶購入は、とても人気のあるサービスだ。
「老人たちに生きがいを与える」
「脳に刺激を与えることが、
ボケを防止に役立つことも証明されている」
など、社会的にも老人が記憶を購入する事に関しては肯定的だ。
今日も、老人たちのおしゃべりは止まらない。
スポーツカーを飛ばした記憶。
甘いラブロマンスの思い出。
美食の限りをつくした豪華なディナークルーズ。
有名人と遅くまで語り明かした夜。
それぞれが、どれだけ自分が買った思い出が素晴らしいかを
競い合うようにしゃべっていた。
その中に。
1人だけ、全員の話を微笑みながら聞いている老婆がいた。
誰が、どんな話をしても
「へぇ~、すごいですねぇ」
「それはそれは、立派な事をされましたね」
「今の話、もっと聞かせてもらえますか?」
と、ニコニコと相槌を打って他の人の話を聞き、
自分の話は、特に何も話すことはなかった。
それもそのはず。
その老婆は、記憶を買ったことがなかった。
特に記憶を買うことに抵抗があるわけでもなく、
特別な信条があるわけでもない。
単に、記憶を買う金銭的な余裕がなかったのだ。
ほとんどのお金を持病の治療にあてる必要があり、
しかも、今度大きな発作が起きたら、
命にかかわると言われてもいたので、
記憶を買うのも、ためらっていたのかもしれない。
しかし、彼女は特に不満を言うわけでもなく、
「みんなの話を聞いているだけで、充分幸せですよ」
と、いつも熱心に、他の老人たちの話に耳を傾けていた。
そんな彼女を見て、他の老人たちは
「思い出が買えないなんて、かわいそうな人だねぇ」
「今どき、ひとつも記憶を買わないなんて、
ちょっと変わっているのかもしれないな」
などと噂していたが、それでも、いつも自分たちの話を
興味深げに聞いてくれる彼女をみかけると、
「ちょっと、私の話を聞いてくださいな」
と、誰もが彼女に話を聞いてもらいたがった。
そんなある日。
いつものように、ある老人が買った思い出話を老婆が聞いていると、
突然、老婆は、自分の胸のあたりが苦しくなるのを感じた。
心臓の動悸は止まらず、呼吸もしにくくなる。
恐れていた大きな発作が、とうとう始まってしまった。
話をしていた老人が、あわてて介護士を呼ぶと、
介護士は、老婆をベッドに運びこんだ。
老婆の容体の変化を聞きつけると、
ホームに住んでいる老人たちが全員、
老婆の休む部屋へと駆け込んできた。
浅い呼吸を続ける老婆は
「あれまぁ、みんな。
そんなに慌てて、おおげさですよ」
と老人たちに笑いかけたが、その笑顔には
普段のような余裕はなかった。
ベッドをのぞき込んでいた老人が
老婆に話しかける。
「元気になっておくれよ。
あんたには、もっと聞いてほしい話があるんじゃ」
また別の老人も言う
「あなたに話を聞いてもらえなかったら、
これから先、何を楽しみにしていったらいいのやら。。。」
集まった老人たちは、口々に老婆を励ました。
さらには、
「今度のあんたの誕生日には、
みんなでお金を出し合って、あんたが望むような記憶を
プレゼントしようとも言っておったんじゃ」
と、涙を流し始める老人もいた。
老婆は全員の励ましに応えるように
しずかに微笑みながら、ベッドに集まった人たちに伝えた。
「みんな、本当にありがとうね。
みんなの気持ち、本当にうれしいですよ。
でもね、もうみんなから、
とっても素敵なプレゼントをもらいましたよ。
それは、いま。
いま、この時ですよ。
いま、みんなにこんなに見守られながら眠れるなんて、
最高の思い出。
私は、みんなのおかげで、他のどんな人よりも幸せな、
最高の思い出を持っている人になれています。
今までずっと、ありがとう」
そう言って、誰よりもたくさん、
他の人の思い出話を聞いていた老婆は、
最高の思い出を胸に抱いたまま、ゆっくり、静かに目を閉じた。