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記憶の残香

先日、久しぶりに参加者として
セミナーに行った。
 
それは写真のセミナーだったんだけれど、
その中で特に印象的だったことのひとつが
 
「センスは、生まれ持ったものではない」
 
という話だった。
 
 
「センス」
 
と聞くと、つい先天的に持ち合わせているかどうかで
決まってしまうような印象を受ける。
 
そして、
 
「私には、美的センスがないから」
 
とか、
 
「僕には、ビジネスセンスがないからなぁ」
 
なんて、すぐに諦めてしまう思考回路に
入りやすかったりするよね?
 
 
でも、その先生は言う。
 
「センスは、〝見貯める〟 ことで磨けます」。
 
 
 
つまり。
 
 
写真で言えば、自分で撮ったものでなかったとしても、
 
 
「あ!これキレイ!!」
 
「素敵だなぁ」
 
「こんな写真が好きだなぁ」
 
 
というものを、たくさんたくさん見ていくことによって、
それはいつの間にか自分の中に蓄積をされてゆき、
 
「自分のセンス」 
 
として蒸留されてゆく、
というわけだ。
 
 
たしかに、自分の中にゼロのものを
生み出してゆくのは難しいけれど、
 
「いつか見た、あの景色」
 
が多ければ多いほど、自分のアウトプットも
彩りが増え、「センス」として出てくるのだろう。
 
 
今の自分にセンスがあるかないかは、
過去から現在までの蓄積がモノをいう、
というのは、一理も二理もあるように思う。
 
 
 
そして。
 
 
その話から派生して、
 
「考えてみると、
 それは写真のセンスだけに
 とどまる話ではないな」
 
なんて考えたんだよね。
 
 
どういうことか?というと。
 
 
それが美的センスであっても、
 
人間関係のセンスであっても、
 
ビジネスセンスであっても、
 
 
「過去から現在までに、
 どれだけのものを心身に通してきたのか?」
 
 
というのは、大きな影響を持つことだと思う。
 
 
モノをたくさん持っている人が
魅力的とは限らない。
 
ただ、多くの素晴らしいモノに触れ、
それを自己の中で新陳代謝させてきた人は、
それだけ多くのエネルギーを
自分の心身に通してきたのだと思う。
 
結果として、魅力的な人間になることは
多いように思う。
 
(モノに執着しすぎる人はその限りではないけど、
 きれいな新陳代謝をしてきた人は
 やはり魅力的な気がする)
 
 
 
また、とあるビジネスマンは
 
「男の価値は、どれだけのお金の流れを
 自分に取り入れたかで決まる」
 
と断言している。
 
 
この説は、個人的には抵抗があるけれど、
 
「お金」
 
というエネルギーをインプットし、
またアウトプットし循環させ、
自分の中で代謝させてきた人は、
大きなエネルギーを感じることが多い。
 
 
 
モノやお金でもそうなのだから、
芸術は言うに及ばないだろう。
 
 
どれだけの音楽に触れてきたのか?
 
どれだけの美しい自然と対話を交わしたのか?
 
どれだけの言葉を紡ぎ、紡がれてきたのか?
 
 
そんな蓄積と代謝が、その人自身のセンスとなり、
ひいては「その人、そのもの」になってゆくのは
想像に難くないだろう。
 
 
 
 
モノも、お金も、写真も、歌も、言葉も、
 
 
今、その場でどれくらい所有しているかとかは
人間的な魅力には、さほど関係ない。
 
 
ただ、
 
「過去から現在までに、
 どれだけのものを心身に通してきたのか?」
 
ということは、大いにその人を形づくるのに
影響を持つだろう。
 
 
何を心身に通してきたのか?
 
 
その中で、どんな質のものを心身に通してきたのか?
 
 
それは、目に見える形でなかったとしても。
いや、目に見えるものでないからこそ、
その人の人間としての在り方として
感じ取れてしまうことになる。
 
 
物理的に残っていなかったとしても、
その人の記憶や潜在意識に「残香」として
ほのかに、ずっと香り続ける。
 
 
その「残香」を、他の人も感じ取るから
その人への態度を決める。
 
 
そしてもちろん、その「記憶の残香」の集大成として
その人が発信するものが決まる。
 
 
そんな気がしますわ。
 
 
 
さてさて。
 
 
あなたは、今までにどんな「記憶の残香」を
代謝させてきましたか?
 
 
そして、これからは、どんな「記憶の残香」を
まとっていきたいと思いますか?
 
 
  
考えるきっかけを作ってくださった先生に感謝。
 
 
ではでは。
 

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