昨日、私の大切な友達から
ある具体的なプロジェクトの構想が送られてきた。
それは、パソコンのメモ帳で入力され、
タイトルも「イグさんへ.txt」というシンプルさ。
順番もバラバラな、それこそ雑多なメモ書きだった。
でも、
そこに書かれていた
プロジェクトで実現したいことは、
たくさんの人に希望を提供する、
素晴らしく、美しいものが綴られていた。
その人は、
ずっとずっとハッピー街道まっしぐら!
という訳ではない。
今も、おそらく人生最大の
ヘビーな重責を毎日かかえている状態のはず。
その中では、私の想像を絶する傷つくようなことや、
理不尽な労力や経済的な負担を強いられるようなことも
あると想像する。
それでも、
「人は誰かを愛し守ろうとする事で
生きがいが生まれる」
「戦争も守るべきものがあるから戦っている。
その守るべきものが大きな愛で包まれたらどうだろう」
と、愛と光を広げるための構想を
超絶ヘビーな現実のさなかでも
具体的におし進めていくわけだ。
そう。
そしてその姿勢は、
その人だけではない。
どう考えても、人生ハードモードだろ?
と思うような人が、日々、
多くの人を明るくする活動をしていたり、
「絶対、これ、不快やろな」
とか
「これ、一歩間違ったら、セクハラやんか」
といったコメントをもらっていても、
ニコニコ活動を続けている人もいる。
友達、仲間。
あるいは直接は知らない人であっても、
そんな方々に触れると、心の中で最大限の
リスペクトと応援の気持ちを贈りたくなる。
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最近読んだ漫画の中で
(スミマセンねぇ、ゲームや漫画ばっかりで)
「言葉の力」
について書かれていたものがあった。
迷う主人公クラスの登場人物に対し、
恩人である人物は、こう言う。
「言葉の力というのはね、話す人がしてきた
決意の数で決まるんだと私は思う。」
「正しいとか悪いとかじゃなく、
自分は絶対にこうする!という答えをね。」
「君は優しい。
マジメで責任感もあって
周りをよく見てる。」
「だから、
人より深く悩む。」
「その分、君の決意には、
人よりも力があるはずだ。」
と。
そうなのだ。と、思う。
私がリスペクトしている人たちには、
「決意」がある。
それも、一時的にアドレナリンを燃え上がらせて、
ドーパミンをドバドバ出しながらした決意ではなく、
長年、障害にぶつかるたびに判断をし、
そこに本気でぶつかってきたからこそできた
深く刻まれた、年輪のような決意がある。
そのような人は、言葉の力を持つ。
巧い言葉ではなく、力強い言葉を持つ。
そして、その力強い言葉や決意は、
強い引力を持つ影響力となってゆくのだろう。
しかし、そこで彼ら彼女らの旅は、終わらない。
強い影響力を持った時に、また試される。
その力を、自分に使うのか?
それとも、誰かのために使うのか?
自分の興味・関心を、小さな範囲にとどめ、
影響の届く範囲の外にあることを攻撃し、
自分が手に入れた「特別な力」に酔い、悦に浸るか?
それとも、
関心の輪をさらにさらに広げ、
スケールの大きな絵を描き、
自分ができることの小ささに絶望しながらも、
「それでも、光を」
「光の射す方へ。」
と、自分のできることをコツコツやるのか?
それは、それぞれの生き方。
その上で。
光の射す方を目指し続ける人を応援し、
できれば、そんな人とともに歩める自分で在れればいいな、
と、心から思う。
光の射す方を目指し続けている友へ。
同じ時を生き、仲良くしてくれてありがとう。
私の心がクサクサした時に、
「関心の輪が、小さくなってるよ」
ということを、背中で教えてくれて、ありがとう。
これからも、どうぞよろしくお願いします。
感謝を込めて。
ではでは。