「暴力」の定義。
大昔は「暴力」というと、主に腕力や武力によって、
相手に肉体的苦痛を与える行為を指していた。
もちろん、今もそういったシンプルな暴力もある。
けれど最近は、もっと言葉の範囲が
広がっているようにも感じる。
「言葉の暴力」
とか、
「パワハラ」「セクハラ」
などなど、いろんな「暴力」の形があるよね。
では、その「暴力」とは、どんな定義になるだろう?
と、いつもの「定義好き」な私は考えてみた。
色々な局面があるだろうから、一概には言えないけれど、
たぶん、このような定義で、遠く外れてはいないと思う。
「暴力」とは、
「受け取る側が、実行する側と差を感じている部分で、
被害・損害を受けたと感じる行為」
である。
ポイントは、
「視点は、あくまでも暴力を受ける側である」
という点と
「相手が差を感じている部分」
というところかな?
どんなセクハラを受けていても、
セクハラを受けている人が、セクハラしている人のことが
大好きだったら
「ぃやん☆もう!エッチなんだからぁ~♪」
で済んでしまう。
また、
日本最大の暴力勢力は、
実は「国家」なんだけれど、
暴力を受けている側(国民)が
「暴力」と認識していない限りは
それは「法律」という名前で呼ばれる。
「私たちにお金を支払ってください。
私たちの決めたルールで生きていってください。
もしそれに反したら、あなたの自由を奪ったり、
あなたの命をいただいたりします」
と言うのが、国家の作った「法律」だ。
が、今のところ、日本では
それは「暴力」とは呼ばれない。
そんなもんだよね?
あと、もうひとつ大事なポイントがある。
それは、
「相手が差を感じている部分」
というところ。
腕力の差、
権力の差、
性差、
など、被害を受ける側が相手に
「差」を感じていない場合は、
「暴力」とは、あまり呼ばれることはない。
単なる「ちょっかい」とか、
ひどくて「嫌がらせ」くらいで、
「暴力」とまでは呼ばれない事が多いだろう。
で。
たいていは、暴力をふるう側の方が
暴力を受ける側よりも「大きな力」を持っている事が多い。
が、「相手が差を感じている部分」であれば成立するので、
暴力をふるう側の方が「小さな力」しか持っていない場合もある。
たとえば、
「私は病気なんだから、仕方ないでしょっ!」
とか、
「私は能力がないんだから、保護してよっ!」
と、
自分の持っている力の「小ささ」をアピールして
相手をコントロールしようとするのも、
個人的には「暴力」だと思う。
相手を不快にさせたり、
相手が損害を受けたと感じたわけだから、
けっこうな「暴力」だ。
さらに、相手がなかなか抵抗できないのを
分かっていて使っているのだとしたら、
なかなか悪質な暴力だと思うけれど、どうだろう?
相手が「差」感じていて、それにより
「被害・損害」を感じたら、それは「暴力」になってしまう。
なかなか恐ろしい世界だ(笑)
いつでも「加害者」になり得るわけだからね。
と、そんな世界に生きる我々には、
3つの選択肢が用意されている。
1つ目は、
「誰とも接することなく生きていく」
という方法。
2つ目は、
「誰を傷つけても気にしない」
という方法。
そして最後の3つ目は
「相手の感じていることに、敏感になる」
という方法。
1つ目は、誰とも接しない事で
誰からも「暴力を振るわれた!」と言われない方法。
だけれど、そんな事は現実的には不可能だろうし、
「もっと幸せになりたい!」
と思っているであろうあなたには、
あまり向いている方法とは言えないかもしれない。
2つ目は、どんなに相手を傷つけたとしても
気にしないで、自分の好きなことをやっていく方法。
これで何のストレスも感じなければ、
生き方としては悪くないかもしれない。
あなたにとって必要な人は、それでも
あなたの周りには、いてくれるかもしれないしね。
まぁ、もっとも現実的かな?と思う方法は3つ目。
相手が今、どんな風に感じているのかを
理解しようと努力し、
相手との差を、自分のために「利用」せずに
お互いのために「活用」しようとする。
そんな気の傾け方が必要なのかもしれないね。
それは、別に接客業とかカウンセラーとかじゃなくても
現代に生きる我々にとっては、
そこそこ必要な心構えなのかもしれない。
え?私?
私は、心構えはあるつもりだけれど、
すべての人に、きちんと気を遣えているかは
まったく自信はございません(笑)
ではでは。