今、とあるコンテンツのために
あらためて色んな情報を収集しているんだけれど、
つくづく感じている事がある。
それは、
「ホント、人間ができることって、
バラエティに富んでいるなぁ」
ってこと。
地球上に、人間ほど
多くの事が出来る生物は存在しない。
(それが偉いとかとは別として)
人間ひとりが人生において出来ることは
限られている。
けれど、「人間」という共同生命体の可能性は
はかりしれない。
ある人間は、大地を自由に駆け、
ある人間は、水の中を自由に泳ぎ、
ある人間は、ボードだけで
空中を滑空することができる。
また、
ある人間は、動物を探究し、
ある人間は、経済を生み出し、操り、
ある人間は、宇宙の秘密に一歩近づく。
そして、
ある人間は、歌で世界を癒し、
ある人間は、写真や絵で世界を表現し、
ある人間は、文字で心をゆさぶる。
さらに、
ある人間は、見えない世界を感じ、
ある人間は、人を率い、
ある人間は、新しい価値を創出する。
色々な事をやっている人を本で知ったり、
動画を見たりして知ったり、
あるいは直接お会いして知ると、
「あー、ホンマ人間っていう種に
生まれさせてもろうて、おおきにやでー」
と、心の中で合掌したくなる。
(関西弁なのは、あまり意味がない(笑))
そして。
多くの人がやっている多くのことを知れば知るほど、
そしてその中身が素晴らしければ素晴らしいほど、
その人が体現したいことや目指している事の中に
共通項を見出すのも事実。
それはたとえば
「我々はどこから来たのか?
我々は何者か?
我々はどこへ行くのか?」
という、ゴーギャンの問いに対する答えを模索することだったり、
「生老病死の悩みから解き放たれるには?」
「執着を手放すには?」
というブッダの教えを体得することだったり、
「私はなぜ生きているのか?」
という答えを、生涯かけて導き出すためのプロセスだったり。
反応的でなく、主体的に生きようと
もがく人は、全然違う事をやりながらも、
同じ方を向いている気もする。
方法はバラバラ、
方向は一緒。
そんな感じがするんだよね。
やり方は人それぞれで、自分がしっくりくる方法を選んでいるけど、
道は同じ道を進んでいて、その道を到達するべく歩いている。
肉体の限界に挑む人もいれば、
知の探究に生涯を捧げる人もいれば、
芸術を通して世界を愛する人もいれば、
宗教や自己に内在する力を信じる人もいる。
そして、その全ての人が
最終的に向かう先は、同じ道・同じ方向だったりもする。
で、
面白いのが、
「やり方」も「道」も、英語で言うと
「Way」
なんだよね。
これは完全な妄想なんだけれど、
むかしむかし原初の英語では、
「やり方」も「方向」も区別がなかったのかもしれない。
どんなやり方をしていても、
「道」であることには変わらないでしょ?
そんな、おおらかな世界観だったのかもしれないね。
そんな風に考えながら、レディー・ガガさんの
「 Born This Way 」
というタイトルを、あらためて思い出してみたり。
たぶん、私たちは
どんなやり方を選んでもいいんだろうね。
それが賞賛を受ける方法であろうが、
人知れずひっそりとやる方法であろうが。
全然ちがうことをやりながらも、
たぶん極めて行けば、
「ああ、同じ方向だね」
「一緒の道だね」
という人に出会う事ができるんだろう。
同じことをやっている人と出会うのも楽しいし、
同じ方向の、おなじような位置にいながら
全然違うことをやっている人との出会いも
それはそれで楽しい。
なんか、あらためて
「ああ、何をやってもいいんだなぁ」
と、うず高く積まれている資料の山に埋もれながら
考えてみた今日この頃。
ってなわけで、今日はカッコよく英語で締めよう。
「 Which way do you choose? 」
・・・英語は苦手なので、間違っていたら
全然カッコよくないね(笑)
ではでは。