「さて、どれに乗ろうかな?」
天界に住む「それ」は、
膨大な選択肢を眺めながらつぶやいた。
天界は、あまりに満たされていた。
満たされすぎているおかげで、
何も起こらない。
ただただ、やわらかい光に包まれて
永劫が続いているだけだ。
「やわらかい」「光」と言ったが、
そもそも比較するようなものもないのだから
そこがやわらかいのか、それが光なのかすらも
わからない。
時が過ぎているのか、止まっているのか、
それとも戻っているのかすらもわからない。
いや、すべてがあるからこそ、
そんな区分けすらないのだろう。
だからなのか、
天界の「それ」は、ある遊びをする。
天界以外のものに「乗る」という遊びだ。
宇宙を漂う隕石に「乗る」こともできるし、
生物に「乗る」こともできる。
それらすべても天界が作り出した幻なのだが、
そこでは天界では絶対に味わうことができない
「変化」を味わうことができる。
満たされているがゆえに何もない
天界に住む存在にとって
「変化」は、最高の楽しみなのだ。
—
「よし、今はこれに乗ろう」
「それ」が選んだのは、
地球と呼ばれている、星という存在の
人、という乗り物のひとつだった。
「えいっ!」
「それ」は、人と呼ばれる存在に乗り込んだ。
「それ」が乗り込む、今この瞬間まで、
人と呼ばれるものに、時は存在していない。
ただ、乗り込み、起動すると
「私はこういう人間だ」
「過去はこうだった」
「こんな人間関係がある」
「こんな悩みを持っている」
というすべての「記憶」が動き出す。
本当は「人」が認識している
「過去」なんて、ない。
すべては、
「昨日はこうで、おとといはこうで、
一週間前はこうで、一年前はこうだった」
という記憶データなだけで、すべては幻だ。
今この瞬間まで、過去なんて存在していなかった。
「あやふやな記憶」というのは、
そのデータを作り出しているから起こるのだ。
もちろん、乗り込んでいる「人」には
すべてが現実だと感じられるし、
「私」は、生まれた時から今まで
ずっと同じ「私」だと認識しているのだが、
その瞬間に感じている「私」なんてものは
その瞬間の前までは存在していなかったのが真実だ。
乗り込んでいる「それ」も、
乗り込んでいる時は自分を忘れてしまっているから
「私には過去があって、きっと未来があって、今がある」
なんて信じているだけにすぎない。
—
基本的には、乗り込んでいる存在の
1サイクルが決まっていて、
そこで自由に乗り降りすることができる。
今回の「地球の人」であれば、
その1サイクルは、この世界でいう
1日、24時間となっている。
普通は、乗り込んでいた「人」が眠った時に
「それ」は「人」から降り、
天界に戻ってくるのだが、そうじゃなくてもいい。
フッと抜ければ、それでおしまい。
また別の機会に「それ」が
同じ「人」に乗り込めば
そこからまた始まる。
その時のつなぎ目は、
「あれ?なんかほんのちょっと
我を忘れてた」
という感覚でしかない。
一時停止ボタンを押されても、
その世界の中にいたら、気がつくことはない。
—
「それ」が乗り込む。
そして体験をし、「それ」が降りる。
そんな繰り返しが
時間を超越して行われている。
次の「それ」が乗り込むまでは
その「人」は永劫に止まっているのだが、
「人」からすれば、「私」はずっと続いているし、
世界はずっと動いていると認識されている。
まさか、そんなわけないのに。
それでも「人」は寝て、起きれば、
「あーあ、良く寝た。
また同じような日が始まるのか」
と、何もなかったかのように
「次の日」を始めるのだ。
—
この「次の日」というのも、
仮にそう表現したにすぎず、
同じ「人」であっても、
0歳の時に乗り込むのも、
老人で死の間際を迎えている時に
乗り込むのでも、どこでもいい。
「それ」が体験したい時間に
自由に乗りこめばいいのだから。
あまりに生まれたての時に乗り込んでしまうと、
どうやら「それ」でいた時のことも
覚えたままになってしまうようなのだが。
—
さらに言えば、
同じ「人」の同じ「時」であっても、
同じ場面の繰り返しかどうかも決まっていない。
以前とは違う「それ」が
以前とは違う選択をすれば、
また別のできごとの世界ができるだけだ。
パラレルワールド、なんて呼ばれている
時代と世界もあるようだ。
—
「それ」は、
何かに乗り、体験をし、天界に戻る。
そして「変化」を味わう。
「幸福」を味わう。
「不幸」を味わう。
「生きる」を味わう。
「死ぬ」を味わう。
すべてが満たされている天界では、
そのすべてが味わえない。
不幸がないのだから、幸福も存在できない。
死がないのだから、生も存在できない。
時間も無限なのだから、
時間も存在できない。
だから、「それ」は、
満たされていない世界に遊びに行く。
ある時は、無生物に乗り、
ある時は、虫に乗り、
ある時は、人に乗る。
ある時は、英雄に乗り、
ある時は、罪人に乗り、
ある時は、名もなき者に乗る。
「ある時」と言ったが、
天界に還れば、そんなものすらなくなる。
乗り、味わう。
幸福を、不幸を、喜びを、悲しみを、
慈愛を、怒りを、うぬぼれを、悔しさを、
平安を、闘争を、栄光を、挫折を、
真面目を、不貞を、忠義を、裏切りを、
富を、貧しさを、ぬくもりを、孤独を、
森羅万象のすべてが
「満たされていない」世界で、体験する。
—
ある「人」に乗って
くやしさを味わったあとは、
別の「人」に乗って
優越感を味わったっていい。
もちろん、同じ人の
「くやしさをバネに人生が花開いた」
という世界を味わってもいいし、
「くやしさと絶望で自ら命を閉じた」
という世界を味わったっていい。
「人」に乗り込んでいる時は、
「私」は「私」で、替えが利かないと
思っているから、他と比較して
感情を動かしたりもする。
でも、「それ」に戻れば
すべては幻だったことを思い出す。
乗り込んでいる時は、
「それ」である記憶がないからこそ。
「私」が「私」で、替えが利かない、
と思っているからこそ。
本当に体験を味わえるのだから、
それでいいのだろう。
—
「人」は、昨日の続きで
今日があると思っている。
でも本当は、「昨日」なんて存在していない。
「人」は、今までの記憶は
全部現実のものだと思っている。
本当は、今この瞬間に
「思わされている」データでしかないのに。
「人」は、私は私だと思っている。
本当は、今を観察して体験している
乗り物であるだけなのに。
「人」は、誰かをうらやましいと感じたりもする。
本当は、その「うらやましさ」を
感じてみたかった「それ」が在るだけなのに。
—
「あー、今回も味わった」
「それ」は
すべてが満たされているがゆえに
なにもない天界に帰還した。
また変化が欲しくなったら
次に乗ればいい。
「次」ということも
天界にはないのだけれども。
ふと気まぐれに、「それ」は、
「すべては借りものなのだから、
ていねいに乗りたいものだ」
と思った。
たまたま今、
「挫折」を味わいに行ったからかもしれない。
パラレルに行けるとはいえ、
また別の機会に「それ」が乗るのだから、
ていねいに。
満たされないを味わうために
その瞬間を借りたのだから。
ていねいに、と。
—