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承認アヘン中毒。

いやまぁ、どーでもいいというか
大変だなー的な感想で、
ちょい毒入りの投稿なのだが。
 
 
リアルに会う人でも、
SNSとかでも、自分アピールに
躍起になっている人っているやん?
 
 
まぁ、好きに生きればいいとは思うんだけれど、
なんか「大変な生き方を選んでるなぁ」と
思ってしまう。
 
※これを読んでいる方々は該当しません。
 「これって私のこと??」とか思ったら、
 それこそ自意識過剰です。笑。
 
 
 
いやね、自分自身を認められるってことは
とっても大切なことだとは思うのよ。
 
自分が興味のあること、
がんばっていることを話したり、
書き綴ったりするのも素敵なことだと思う。
 
 
じゃあ、
自分語りしてても楽しく感じる人と、
なんか「腐臭」が漂う人って、
何が違うんだろうな?って。
 
 
そんなことを考えちゃったりしたので
書いてみたいと思う。
 
 
 
さて。
 
 
前提として、ワタクシが
その人自身のことを好きか嫌いか?
ってのもあるんだろうけれど。
 
でも、会ったこともないような人でも
「うわ!めんどくさ!」
って思う人もいるから、何が違うんやろ?と。
 
 
 
で、メンドクサイ系自己アピール人の持っている
特徴を2つ挙げるとすると、
 
・選択的自己評価が過剰
・根底がI’m O.K , You’re NG
 
なのかな?と。
 
 
 
「選択的自己評価」ってのは、平たく言えば、
 
「自分に対する誉め言葉を選んで、拾う」
 
っていうこと。
 
 
いや、誰だって褒められればうれしいし
私なんて主食は褒め言葉だし、
気持ちは分からんでもないどころの騒ぎじゃない。
 
 
でも、
 
自分に対する褒め言葉を、
「しょっちゅう」「自分から」発信するのは
コンプレックスを裏返して裏返して
いつの間にか焦がしちゃった?みたいな感じに見える。
 
 
そもそも、普段からめっちゃ褒められている人は、
それが当たり前なので、
人に会った時に言ったり、SNSに発信したりしない。
 
 
美人さんやイケメンは外見を褒められても
「またか」「はいはい」と思いスルーするし、
 
ピカソに「絵が上手いですね」とは誰も言わないし、
夏目漱石に「文章イケてると思う」ってのはむしろ侮蔑だ。
 
特殊な能力や才能を持っている人は、
重々それを理解しているので、
それを必要な時にしか出さないし、
発信するとしても「覚悟」を語る。
 
 
誰かに褒められたことを「わーい」って
書くのならカワイイけれど、
 
「ああ、また言われちゃったー」
「そんなの、意識してないんだけどねー」
 
とか、自ら発信するのは、なんか、
「どうした?こじらせた?」
「私ってサバサバ系アピール?」
みたいに感じられてしまう。
 
 
誰だって褒められたらうれしいし、
それは素直に喜べばいい。
 
でもそれが過剰だったり、
ひねくれてたりすると、
 
「ああ、もっと言って!っていう
 飢えと渇きなんだな」
 
なんて感じてしまう(ひでぇ)。
 
 
 
また、「根底がI’m O.K , You’re NG」ってのは、
自分のことを認めている(?)けれど、
相対する人のことを実は認めていない、っていう状態。
 
 
私の知っている「真の自分好き」さんたちは、
 
「自分のこと大好き!
 でもみんなもすごいよ!」
 
という「I’m O.K , You’re O.K」の人たちばかりだ。
 
 
自分のことが好きなのは
その人にとってもう「日常」なので、
そこにフォーカスはない。
 
言われたら「ああ、そうだけど?」みたいな感じで
普段は他者への「O.K」にベクトルが向いている。
 
 
 
「あなたには価値がある」
 
という言葉を、
 
「ああ、私って価値があるんだ。よかった」
 
と「受け、止める」のではなく、
 
「あ、あなたには価値がある!あの人に言ってあげよう」
 
と「受け、渡す」人。
 
 
そんな自分好きさんたちは、
むしろうらやましい。いいなー。
 
 
 
そう、誰かを手放しでほめられる人。
 
自分の「ブランディング」とやらを上げるために
「権力者」や自分の「教え子」を持ち上げる、みたいな
利用をするのではなく、
自然体で人と接することができる人。
 
そんな人に、ワタシハナリタイナ。
 
 
 
 
さてさて。
 
 
 
今回は、
 
「なんでこの人は滑稽に見えて、
 あの人は自然に見えるんだろう?」
 
という、極めて個人的な疑問と主観から
つらつらと書いてみた。
 
 
書いてみて分かったんだけれど、
これは私の中にも根強く巣食う
 
「超人コンプレックス」
 
をこじらせてしまった結果なのかもな、
なんて感じた。
 
 
 
自分が特別なものでありたい。
 
ひとかどの人物でありたい。
 
 
そんな願いが淀み歪み、
自分の理想と現実の乖離を埋めるために
自らの言葉で補おうとする。
 
 
 
でも、それはバレるよね。
 
 
自分で言わなくても
周りから出てくる評価が
少なくとも人間社会的には「実像」だし、
 
ひと握りの、責任と覚悟がある人間が
「超人」たりうる。
 
 
本当に悟っている人は、
悟っていることを世に発信する必要がないし、
そんな人たちの日常も、コツコツと平凡で地味だ。
 
 
自分が超人であるという虚像に
しがみついている言動は、滑稽だ。
 
みんなが出来ていないことを
ヒョイとやっているように見せている人は
井の中の蛙が兵を語っているに過ぎない。
 
 
真の超人は、もがき、苦しみ、
自分の力の至らなさに、やるせなさを感じながら
それでも日常を地に足をつけて生きているから。
 
 
 
特別感を感じさせるような言葉には
気を付けたいよね。
 
 
言葉をうまく操る人は、たいてい不誠実だからな。 ←
 
 
ではでは。
 

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