スポンサーリンク

「愛は素晴らしい」って、思考停止じゃない?

久しぶり(?)に、ちょいヒネクレた記事を。
 
 
今の世の中、
 
 
「私は愛があふれる人です」
 
とか、
 
「愛こそ至高!」
 
 
といったことを宣言している人がいるんだけれど、
たまーに違和感を感じたりする。
 
なぜなら、ワタシはヒネクレ者だからだ。
 
 
 
どこに違和感を感じるのかを
アホな私は考えてみたんだけれど、
違和感の正体には2つあって、
 
 
・その人の「愛」の定義があいまい
 
 
・どこが価値なのかがあいまい
 
 
ということに起因すると思う。
 
 
 
「愛に価値があるのか?」
 
ということに一度も疑問を持たないまま
 
 
「私は愛の使者です」
 
 
みたいなことを発信していると
なんか不思議に感じるし、
 
そもそも、その人の言う「愛」とは
どういう状態なのかが言語化されてないと、
ワタシには正直よくわからない。
 
 
 
「じゃあ、そんなヒネクレたことを言う
 オマエの定義はなんなのよ?」
 
 
というと、
 
 
「愛とは、心が開く思い込みである」
 
 
ってのが現時点の定義。
 
 
心が閉じる思い込みが憎しみなのかなー、
とも思う。
 
 
 
心が開く思い込みなので、
 
それは、献身であったりもするかもしれないし、
下手な期待であったりするかもしれない。
 
 
グワっとパァッと開く時もあるし、
痛みをともなって開く時もあるだろう。
 
 
  
ワタシ自身はそんな定義なので、
 
 
「愛に価値があるかどうかは、その時次第」
 
 
という風に捉えちゃうんだよね。
 
 
 
たぶん、他の人は別の定義があるんだろうけれど、
少なくともワタシの耳には「愛」は「思い込み」に聞こえて
 
 
 
「私の無償の思い込みが、世界をハッピーにする」
 
 ↑
 
え?そう?
 
 
 
「私は、思い込みの使者!」
 
 ↑
 
たまに迷惑になりませんか?
 
 
 
「ぼくはきみのことを、こんなに思い込んでるんだ!」
 
 ↑
 
相手によっては思いってか重いですよね?
 
 
 
「こんなに辛いなら、思い込みなどいらぬ!」
 
 ↑
 
ですよね。そりゃ聖帝十字陵ですよねサウザー
 
 
 
 
とか思ってしまうワケ。
 
 
 
 
他にも、世の中的に
 
 
「価値がある」
 
「価値に疑いを持つことそのものがタブー」
 
 
みたいなこともあるけれど、
 
 
そんなものにこそ、一人ひとりが自分なりの定義を持ち、
そこに自分なりの価値観を持った方がいいと思うんだよね。
 
(ということ自体が、ワタシの価値観だけど)
 
 
 
 
 
愛は美しい。
 
愛に価値はある。
 
 
それは理解しているし、たくさんの人の愛に
私自身、いつも助けられている。
 
心の交流によって、
生きる意味をもらったりもしている。
 
 
 
 
ただ、
 
それと思考放棄は別の話だ。
 
 
 
どんな愛に価値があり、
 
どんな愛は迷惑になるのだろう?
 
 
私にとって愛をベースにしたこの行動は、
相手にとってうれしいことなのか?
それとも押しつけなのか?
 
 
やること、やらないこと。
 
それぞれ勇気なのか臆病なのか?
 
偽なのか本物なのか?
 
 
全部に正しい判断を下してから行動しているワケじゃない。
 
てか、ほとんどが衝動的だ。
 
 
ひとり相撲を取らせたら、ワタシは横綱クラスだ。
 
 
毎日、ひとり相撲に明け暮れている。
 
 
 
 
でも、
 
 
そんな中でも、できるだけ
 
 
「自分の思い込みの行動の結果、
 相手も幸せを感じられる」
 
 
そんな「愛」を発信していけたらな、
なんて思っております。
 
 
 
ご迷惑をおかけしているみなさま、
 
これからもワタシのひとりアクション活劇を
 
どうぞ生暖かくお見守りください(笑)
 
 
 
ではでは。
 

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク