分かった風なことを言うつもりはないけれど、
おそらくそうなのだろうな、ということ。
私たちが「欲しい」と思うこと。
たとえばそれは、お金であったり。
異性からの愛であったり。
あるいは健康であったり、
時間や自由であったり。
それらはどうやったら手に入るか?というと、
シンプルに「それを理解する」ということに尽きる。
たとえば、特に男性はそうなりがちかもだけど
「女性が欲しい!」となった時に、
つい、相手を畏怖してしまう。
おっかなびっくり接してしまう。
と、結果として、恋愛関係にならない。
あるいは逆に、心のどこかで小バカにしていたり
軽んじていたりしても、
心が満たされるような関係にはならない。
そのどちらの姿勢も「理解」の姿勢ではないからだ。
お金でも同じ。
お金に対して、どこか「怖い」と思っていたり、
崇拝の気持ちがあったりすると、スルリと手から抜け落ちる。
逆に「お金は汚い」「お金は悪」という気持ちでも、
お金からは離れられるだろう。
フラットでも、ニュートラルでもない意識は
「理解」という姿勢ではないからだ。
健康も、時間も、
「こういう性質がある」
「このように扱うと、このようになる」
ということをニュートラルに理解する。
少なくとも理解しようとすれば、欲しい状態に近づいてゆく。
もちろん、環境や先天的な要素もあるので
それがすべてとは言い切れない。
でも、
崇めるような下から目線でも、
軽んじるような上から目線でも、
欲しい状態での「それ」は手に入らない。
だってそれは「理解」ではないから。
なので。
もし、欲しいものがあるのだとしたら、
「それ」を本質的に理解しようとする。
「それ」の本質は、
今、考えているものとは大きく異なるかもしれない。
自分の世界が間違っていたことを認めなければ
いけないかもしれない。
もちろん、自分の世界を守りたかったり、
過去を否定したくないのであれば、そのままでいい。
その上で、
ニュートラルな理解こそが、
「それ」との良好な関係の土台になるのだろうと思う。
そして。
今までに書いてきた「それ」という表現に入るのは、
別に異性やお金や、健康や時間だけでもない。
料理も、写真も、絵も、文章も、
営業も、スピリチュアルも、なにもかも。
もちろん「あなた自身」も。
ニュートラルな理解、
そして理解を土台にして、愛を注ぐ。
土台のないまま愛を注いでも、
それはおかしな方向に行きかねない。
そんな風に思うのでありんす。
ではでは。